史実、中でも激しい利害のぶつかり合いを基に描かれている歴史小説は、凡人には想像も及ばない世界へと誘ってくれます。
そんな物語ならばこそ、時に勇気や感動を分けてくれ、諭され、教えられ、導いてもくれる、宝物の様な場面を記録しておきたい。
凡庸な筆者の宝箱です。
沈黙する資料から生き生きとした世界を現出させる、作家氏の熱意と力量に敬意を表して、原作の格調を損なうことの無きよう務めていますが、不慣れなことゆえ違和感を感ずるかもしれません、ご容赦ください。
尚、当初は一作品一場面に絞っていましたが、後ろ髪を引かれる思い断ちがたく、場面数に拘らない事とします。
☆迷える小猫 2017/05/03
――これは道なのだ。
と、おもった。道とは、作為の所産ではなく、運命ともちがい、おのずとあるものである。運命が、どうにもならぬもの、生産を停止したかたち、をふくむのにたいして、道は、千変万化し、万物を産む力さえそなえている。運命を想うと怨恨が生じ、思想と行動が限定されてしまうが、道を想えば、自在となる。
宮城谷 昌光 著「香乱記」 より
時代背景は、中国の秦朝末期から楚漢戦争。
この時代を彩った人物といえば、やはり項羽と劉邦であるが、全く無名と言える斉王「田横」を主人公とした歴史小説。
始皇帝亡き後の卑劣な争いから、中国の人口を半減させたと言われる激しい楚漢戦争を、項羽と劉邦を脇役のごとく眺めながら、著者をして「理想像」と言わしめた田横からの視点で描かれています。
残虐、裏切り、凄惨を極めていた時代に、荒波の様な運命に抗いながらも、信じた「道」に生きた主従に涙を禁じ得ない。
宮城谷氏の作品は、たしか「重耳」で出会ってからよく読んでいたが、宮城谷氏の世界に眩しさを感じる様になってから暫く遠ざかっていて、この香乱記も読み終えるのに十余年を要してしまったが、この間自分も多少は変わったのか、また宮城谷氏の世界に浸れそうです。
それにしても、いまだ道さえ見つけえない自分に暗澹たる思いである。
☆師 2017/05/25
――おのれの小ささがわかると、あれも大きくなれるのだが。
というのが子をみる親の目であった。が、それには年月という師が要る。時間ほどよい師はないであろう。どんなに人からいわれてもわからないことが、時が経つことによって、さらりとわかることがある。
宮城谷 昌光 著「晏子」 より
時代背景は、中国の春秋時代。
斉の国にあって、君主に諫言を呈し疎まれながらもやがて宰相となり、在任期間中も諫言し続けた。
後に司馬遷からも「晏嬰の御者になりたい」と敬慕された、高潔の孝子であり忠臣である「晏嬰」と、順番が逆になってしまったが、その父「晏弱」の物語。
学ぼうという意志さえあれば、あらゆることが師となりえるのであるが、その教えが自分のものとなるかは、やはり時の歩み方次第であるのは言わずもがなのことである。
そんな様々ある師の中でも、反面教師への対応には注意が必要である。
時おり軌道修正する際の判断材料ぐらいには役に立つが、反面教師に対し、まるで何かに魅入られてしまったかの如くに執着していたり、やることなすこと何でも反対、こんな有様では、反面教師としているものの存在が大きすぎるだけで、超えるどころか近づく事さえ能わず、と見えてしまうのは私だけではありますまい。木乃伊取りが木乃伊となってしまう様なものである。
先の「香乱記」から言葉を借りれば、「反面教師に拘泥してしまうと怨恨が生じ、思想と行動が限定されてしまうが、良き師を想えば、自在となる」
何事においても、自在でありたいものです。
高潔すぎる晏嬰を師としようものなら、どれだけの時を必要とするか想像もつかないが、晏嬰は為政者を諌め続けた人であるから、現代においても、為政者の席に居並ぶ者、中でも反面教師に拘泥してしまっている者達にこそ、晏嬰の爪の垢を煎じて毎日でも飲んで欲しいものである。
☆理想も現実も 2017/06/21
「文どの、人生はたやすいな」
「そうでしょうか」
「そうよ・・・・・・。人を助ければ、自分が助かる。それだけのことだ。わしは文どのを助けたおかげで、こういう生きかたができた。礼をいわねばならぬ」
「文こそ、父上に、その数十倍の礼を申さねばなりません」
「いや、そうではない。助けてくれた人に礼をいうより、助けてあげた人に礼をいうものだ。文どのにいいたかったのは、それよ」
宮城谷 昌光 著「孟嘗君」 より
時代背景は、中国の戦国時代(春秋戦国時代)
生まれた日が不吉だという理由だけで、父「田嬰」(斉の貴族)に殺されかけた「田文」(孟嘗君)と、運命の悪戯か田文を助けて育てる事になった無頼の士「風洪」(白圭)を主人公とした物語。
田文を助けた事から様々な人に出会い、やがて商人を目指し中国一の豪商となった白圭。
風洪に育てられた事により様々な人に出会い、食客という異能集団数千人を抱え、やがて宰相の位に登るも信義を貫いた孟嘗君。
理想(夢や希望)が無ければ飛躍は期待できぬし、現実を疎かにして飛ぼうとすれば墜ちてしまう。
理想と現実、人は大概どちらかに偏っているものです。どちらか一方を選択する様に迫られている訳でも無いのにね。
ここは、理想も現実も欲張っておきたいところです。
一喜一憂を繰り返す度に偏っていってしまうものですが、一喜一憂は庶民の特権、せめて何時までも捉われる事無く、理想も現実も見失わずにいたいものです。
どちらかに突出した者同士、補完しあえればそれも可ではありますが。
風洪も田文も、理想と現実を両方持ち続けた超人です。
信義を立てれば自分が立たなくなってしまう事も少なからずあるものです。それでも信義の裏付けとなる現実を着実に積み重ねて、やがて人々から信頼された。
そんな信義の人達に囲まれて育ち、それが結実したのが田文なのかと思います。
かと思えば、食客(中には胡乱な者も?)を駆使し、時に危地から脱出するためには「鶏鳴狗盗」の類もさらりとやってのける、およそ貴族らしからぬお茶目なところもあり、文ちゃん可愛い(何故上から目線なのかはさておき)と、惹きつけられます。
全体を通して、復讐の応酬の色合いも淡い(珍しく?)爽やかな物語です。
信義、時を越えて最強であって欲しいものです。 が、・・・
我が家の食客たちは、いつも通り気儘にゴロゴロしている。特技は、一所懸命に生きている様です。
後で、礼をいわなきゃね。
それにしても、人生そんなにたやすくは無いな。
☆天啓 2017/07/12
虢については奇妙なうわさがある。
二年前に、虢の国の莘というところに神が降りたという。
途中省略
ところが虢の国に神が降りたことに付属する話が残されている。神が降りたという表現はわかりにくいが、おそらく人に憑いたということであろう。
虢公と親しい周の恵王がその事実を知り、内史の過に、
「みてまいれ」
と、命じた。莘は周都から虢の首都の上陽にむかうみちすじにある邑である。帰ってきた過は、
「虢は滅びましょう」
と、いった。なぜなら、君主や国家が正道にあるとき、神が降りれば、福をさずかりましょうが、非道にあるとき、神がおりれば、禍いをうけるといわれております。いま虢は君主も国家もすこしすさんでおりますから、やがて滅びましょう、と過は説明した。
宮城谷 昌光 著「重耳」 より
つづく(天とか神様は難しいです)
もう忘れちゃったみたいで、よく考えてからまた読み直します。
☆機転 2017/07/18
――弁当をわけてもらえないか。
と、重耳が考えたのであるから、飢渇も極限に近かったのであろう。重耳は馬車をその農夫に寄せ、声をかけた。農夫は黒い顔を上げた。重耳は車上で頭を下げた。農夫はしゃがみ、器らしきものに飯を盛り、ささげるようにもってきた。
「秬(くろきび)らしいが、ありがたい」
重耳は車輪のかたわらにいる狐偃にいった。狐偃がその器をうけとった。山と盛られているものをみた重耳は嚇とし、鞭をふりあげて、馬車から飛び降り、農夫を打とうとした。
――衛は、君主も民も、わしを侮辱した。
それにたいする怒りである。器に盛られていたものは、秬ではなかった。土であった。農夫は悪性を放って逃げようとした。重耳は鞭で足をはらい、ころんだ農夫のうしろえりをつかむと、曳きずってきた。
「公子」
狐偃にしてはめずらしい明るい声であった。重耳は眉をひそめた。狐偃が静かな笑みをみせている。かれは高々と器をかかげ、
「これこそ、天の賜です」
と、いった。なぜなら、民がこの土を献じて服従したのであるから、これ以上、求めるものがあろうか。天意にはかならず兆しがある。公子が天下を制覇するのであれば、それはこの土塊を得たことからはじまる。狐偃はそういうと、農夫を重耳の手からはなし、群臣のまえに立たせ、みずからひざまずいて拝稽首をした。重耳ははっと気づき、狐偃にならうと、群臣はみなその農夫にむかってぬかずいた。
宮城谷 昌光 著「重耳」 より
つづく
☆無から 2017/07/19
郭縦はまなざしを風洪の眉間にぴたりとおいた。風洪はだまっている。しばらくして郭縦は、
「財をなす面相だ。だが、なにかが足りぬ」
と、いい、考えこむ目つきをした。
「学問であろう」
「そんなものがなにになる。学者が万人の主になれるか。億万の富を築けようか。学問とは、みずからが問い、みずからが答えるものだ。他人に問うから、おのれを失うのさ」
途中省略
――やがてこの男が、自分の競争相手となる。
というひらめきがあったからこそ、あのような約束をしたのであろう。たしかに郭縦は頭脳も肝胆もすぐれている。郭縦をこすにはどのような方途があるのか見当もつかないが、とにかくいままでためてきた処世の知恵をすてなければ、真の富はみえないような気がした。そのことを風洪は、
「無から、とりかかれ」
ということばにかえて、自分にいいきかせた。
そうおもうと尸子さがしは苦痛ではなくなった。尸校という学者がどれほどの学識の者か、ということは問題ではない。尸校を発見し、秦へつれてゆく。そう自分できめたかぎり、それをはたすまでである。そのことが自分にとって有益であるか無益であるかと考えることが、これまでの知恵であって、そこを脱しないと、自分の新天地はみえてこない。
宮城谷 昌光 著「孟嘗君」 より
他人に問うことで失ってしまう「おのれ」とは、何を意味しているのか、陳腐な考えですが、「目的と要点」なのかと思います。
他人から教えてもらうことばかりを続けていると、本来の目的が曖昧になってしまい、目的を達成するための手法だった筈のことと目的とが、いつの間にやらすり替わってしまう場合が殆どだと思います。
目的自体が曖昧ならば、それの持つ重要な事柄を見つけるのはなおさら困難になってしまうのも当然です。
ただし、全てを自問自答で片付けるのも無理がありますから、程々に、ということでしょうか。
「無から、とりかかれ」
新しいことを始める時に速成を狙うならば、今までの処世の知恵や他人の知恵に頼ることも有りだとは思いますが、果たしてそれで長続きするのか、と考えれば、まずもってして困難であることは想像するまでもないことです。
真に成功するためには、安易な近道は無いということですね。
☆仁 2017/07/22
ふと晏氂はまぶたが熱くなった。荘公にとって真の臣下は、晏嬰しかいない。かなしいかな、荘公はほんとうに自分を敬愛してくれる者をみぬけない。
――それにしても。
と、おもいつつ、晏氂はあらためて晏嬰をみた。この人の言動には表裏がなさすぎる。人というものは自分の器量と他人の器量を想定して、ものごとの大小や軽重をはかる。その容量にあわぬものをうたがい、怪しむという心のしくみをもっている。晏嬰の言動は、人として想定しうる器量を超えている。屋外での三年の服喪がまさにそれである。人々は、まさか、とうたがい怪しんだが、その完遂をみとどけて感動した。その先例からすれば、晏嬰は荘公をいさめつづけるであろう。君主をうやまい国を愛する臣下として、なすべきことは、それしかない。そこには政争的なかけひきはなく、つねにものごとに全身全霊をもってあたる信念の姿勢がある。それにおもいあたった晏氂は、
――この人は仁(まごころ)のかたまりだな。
と、ふるえるような感動をおぼえた。それは不世出の人格を目前にしているという喜びでもあった。
宮城谷 昌光 著「晏子」 より
父「晏弱」の死後、三年(二十五か月)の喪に服す晏嬰、それは小屋とも呼べぬ様な、城壁に材木を斜めに立て掛けて雨露をしのげる様に草で葺いただけの小屋に入り、粗衣をまとい粥だけをすすり父をしのんだ。
形だけ盛大に行う葬儀に対して、真に死者を敬う形を追及し実行した。
この服喪中、晋軍に攻め込まれるのであるが、敵将がその事実を知り感嘆し、尊父を追慕する孝心の清玄さを汚さぬよう、兵を立て戦火から護った。
君主に諫言をするというのは、この時代であれば誅殺されることを意味している様なものであるが、その類い希な篤い孝心が晏嬰を生涯に渡り護り通したのかと思えます。
☆別れ 2017/07/23
――君死せり。いずくんぞ帰らんや。
晏嬰の声は一段と高くなった。君主が死んだというのに、臣下である自分がここから立ち去れようか。家宰にむかっていったわけではない。門にむかって晏嬰はまっすぐに声を発している。門内で物音がした。兵が門前に立っている晏嬰に気づいたようである。
晏嬰は切々と声を放った。
このときの晏嬰の言は、春秋時代の思想の変化と晏嬰個人の哲理を如実にあらわしたものとして、後世、くりかえしとりあげられる要語となった。その特徴は、
――社稷を主とす。
というところにある。
途中省略
一国にとってもっともたいせつなのは、君主であるのか、社稷であるのか。晏嬰はそれについて、
「君主というものは、民の上に立っているが、民をあなどるべきではなく、社稷に仕える者である。臣下というものは、俸禄のために君主に仕えているわけではなく、社稷を養う者である」
と、ここで明言した。
途中省略
荘公が階段の下で仰臥している。
土まみれの衣服であった。
堂上に嶊杼と慶封がいたが、晏嬰はそちらに目をやらず、荘公だけをまっすぐにみて屍体に近寄り、ふと、まなざしをやわらげ、さらに哀しみ色で染めた。
晏嬰は膝をついた。その膝をじりじりすすめながら、荘公に手をさしのべ、頭をかかえあげると、自分の股の上においた。
やさしい手つきであった。
やがて、泣き、また哭いた。
泣哭をおえると、股の枕をはずし、三度跳りあがった。それを三踊という。もっとも深い哀しみをあらわす礼である。身のおき場のない哀しみを表現するのであろうか。
宮城谷 昌光 著「晏子」 より
社稷、というものの意味を本文中で説明されています。簡単に記しておきます。
社稷というのは、もともと王朝の守護神のことで、社は夏王朝の水の神であり、稷は穀物の神であるが、周王室が合祀して地の実りの神にしてしまった。周王室に服属する国々の公室も社稷をあがめた。国家の存立は社稷にかかっているといえなくはない。そこから、社稷といえば国家を指す様になった。
晏嬰は、君主が社稷のために死んだのであれば、臣下も社稷のために死ぬが、君主が自分のために死んだのであれば、君主に寵愛された臣でなければ、誰が行動を共にしよう。嶊杼は自分で立てた君主を自分で弑したのである。そのために自分が死ねようか。
とはいえ、帰るに帰れない、悲痛な思いがあっての行動であった。
晏嬰という人は、批判する時は相手が君主であってもはばかりをみせないが、陰から批判したり後ろにまわって中傷するような卑劣な事はしたことが無い。それに、庶民や士族にこれほど好かれた貴族もいない。
嶊杼は、自分を問責にきたわけではないことを知ると、民に人望のある晏嬰を利用しようとしたのである。
☆壇上の盟い 2017/07/24
嶊杼の知恵はすこしずつ涸れはじめていた。
その証拠に、こんどの政権の速成ということを考えた。
うわべでは景公や嶊杼に従っていても、心ではさからっている者がいるにちがいない。
――心服せぬ者は、殺す。
途中省略
異様な静けさであった。
すでに七人のいのちが壇上で消えている。
晏嬰の背に戟の刃があたった。
かれは立ち、土の階段にむかった。
途中省略
晏嬰は壇上にすわった。頭上に戟の刃、胸もとに剣刃がある。
指を杯の血で染め、口にぬった。
「嶊慶に与せず・・・・・・」
と、いった晏嬰は、ふと天を仰ぎ、大きなため息をついた。
戟の刃があがった。晏嬰の首を落とすにふさわしい高さでとまった。
「公室に与せずして、嶊慶に与する者は、この不詳を受けん」
そういい放つと、杯の血をすすった。
途中省略
晏嬰は壇下の宰相をみおろした。
「刃でおびやかされて、意志を失うことは、勇とはいえない。利にさそわれて、君主にそむくのは、義とはいえない。戟の刃で吊るされ、剣の刃で倒されようと、わたしはことばをあらためるつもりはない」
途中省略
このまま退場してゆくとおもわれた晏嬰は、くるりとふりむき、嶊杼にむかって、
「君公を弑すという大不仁をなしておきながら、わたしをゆるすという小仁をおこなった。それが正道をとりかえしたことになろうか」
と、堂々といった。
宮城谷 昌光 著「晏子」 より
晏嬰が、荘公に殉じることをしなかったのは、忠臣と称賛された晏嬰にしては多少の疑問も感じるのであるが、それは本人の哲理によるものであり、それが言葉だけではなかったことが、この壇上の誓いによって証明されたのです。
いつでも全身全霊でことにあたる晏嬰の姿勢によって、その存在が揺るぎないものとなり、晏嬰を敵に回せなくなってしまったのである。
☆和して同せず 2017/08/08
景公は晏嬰をうやまい、梁丘拠を愛した。立場をかえてみれば、晏嬰は景公を愛し、梁丘拠は景公をうやまった。
晏嬰と梁丘拠の仕えかたのちがいは、
「和と同」
という一言であらわされる。
途中省略
「拠だけが、わしと和するなあ」
と、満足げにいった。が、晏嬰はうなずかない。
「拠は、同ずるのであって、和するとは申せません」
途中省略
君主がよいといったことでも不備があれば臣下は進言し、君主の聴許を完全なものにする。君主がならぬといったことでもよい点があれば臣下は進言し、君主の不可を可にかえる。そうすることで、政治がととのう。
「ところが拠はちがいます。君がよしと仰せになれば、拠もおなじくよしとする。君がならぬと仰せになれば、拠もおなじくならぬとする。
途中省略
――晏子め、自分も同のくせに。
と、おもいつき、晏嬰をへこますことにした。ある日、さりげなく梁丘拠は晏嬰に近づき、
「あなたは三君にお仕えになった。その三君は心が一つではないのに、あなたは三君に従順であった。仁者というのは、もともと心が多いのですか」
と、たっぷりといや味をこめていった。
晏嬰はゆるりと口をひらいた。
「愛に従って努力をすれば、百の姓をもつ人民を使うことができる。強暴不忠であれば、一人さえ使うことができない。一心があれば、百君に仕えることができ、三心があっては、一君にも仕えることはできぬ」
途中省略
晏嬰は深い色の目を梁丘拠にむけ、
「やりつづける者は成功し、歩きつづける者は目的地に到着する。といいます。わたしは人とかわったところはないが、やりはじめたことはなげださず、歩きつづけて休まなかった者です。あなたがわたしに勝てないというのであれば、それだけのことです」
宮城谷 昌光 著「晏子」 より
「和と同」の違い、筆者も考えたことなど無かったのですが、和の国日本、太古の昔の人々の暮らしぶりはどの様なものだったのでしょうか。
現在をみてみると、いつのまにやら「和と同」を取り違えてしまっている様に思えます。
空気を読む、忖度、服従、これらは「同」じているだけであるし、批判ばかり、これは背面「同」と言わざるをえません。
部下が上司に同ずるだけであるなら、壱+零=壱であり、部下が何人いても、結果は壱のまま。
批判ばかりしているだけであるなら、壱ー壱=零であり、ものごとが先に進まないのも頷けます。
衆知を集めて和算できるのであれば、壱+壱+壱・・・、少なくとも壱より大きくなり、可能性が広がるのは間違いありません。
和の国日本、に、何やら空々しさを感じていたのは、その実態が「同」だったのかと思い当たり、腑に落ちたところです。
個々に利害がある場面であれば難しそうですが、少なくとも同じ目的を共有するなら、「和」でいきたいものです。
人々が「和」するには、個々人が一心で事に当たる必要がある、と、あらためて考えさせられました。
☆自立するには 2017/08/09
「魯は、おのれの文をたのみすぎる」
と、いった。男の説明はこうである。魯の国は周の王室よりわかれた国であるから、先進の国体であるが、魯の宗主の周公・旦がそうであったように、自尊の心が強く、異邦人の知恵など要らぬとする国である。また人臣の上下を峻別するあまり、自国の下層の者の知恵でさえ上層の者はくもうとしない。いうなれば頭ばかりで生きている国である。下層とは国の足にあたり、人も国も足で立っているということを、魯の大臣たちは忘れている。したがってそういう国は、足が痿えるのもはやく、頭にあたる指導者の血が老いてきて、めぐらなくなれば、どうして立っていられようか、と男の舌鋒はするどい。
「ほう、魯の亡びは、はやいといわれるか」
「いや、大国としての面目を失うのが、ということです」
宮城谷 昌光 著「侠骨記」買われた宰相より
時代背景は、中国の春秋時代。
許の国に生まれた「百里奚」は、大望を持ち立身出世を夢みて諸国を遊説する。
途中、生涯の友となる「蹇淑」と出会う。蹇淑は百里奚に賭け共に旅をする。
挫折ばかりの百里奚を、尻を叩きながら励ます蹇淑。二人の男の行く末や如何に。
自分を宰相にむかえた君主が覇業を成すのだ、自信満々な若き百里奚であるが、魯への仕官については、魯はおのれの文をたのみすぎる、と一顧だにしないのだが、そんな百里奚も、おのれの才覚をたのみすぎるという点では同じなのであった。
仕えようとした君主が二人までも非命に斃れるなど、不運続きで徐々に自信を失っていき、遂には奴隷の身分にまで墜ちてしまう。
辛酸に塗れた前半生が、激情家であった百里奚をいつしか寛容の人に変えた頃、ようやく人生に幸運が訪れるのであった。
それにしても、なんと長い道程だったことか。
☆智謀 2017/08/10
――まるで鬼神の目だ。
と、百里奚は蹇淑の洞察力に舌をまいた。
それにくらべて自分の智謀のなさはどうであろう。かれは烈しい自己嫌悪におちいった。そうした百里奚をみかねた蹇淑は、
「なあに、智謀などというものは、一種、心の冷たさからうまれてくるのだ。万人には通じぬよ。万人に通じるのは温かい心さ」
宮城谷 昌光 著「侠骨記」買われた宰相より
近頃の、魑魅魍魎がどこに潜んでいるのか、油断も隙も無いグローバル社会にあっては、性善説だけでは心もとないですから、智謀も必要だと思うんです。智謀と言えるものでも無いですけど。
智謀を心の冷たさ、と言っているのは蹇淑の優しさであって、冷静さと言い換えれば、温かい心も必要だし同時に冷静な思考も磨かなければ、と思うんですが、これがなかなか・・・
☆酒池肉林 2018/01/07
周候というこのじみな男にとって、眼前に展開する広大な苑囿は、およそ幻覚の所産にちかいものであった。人為を超えたものは、
――いずれ滅ぶ。
と、みた。それでもかれは受王の発想を尊んだ。沙丘は祖霊をたのしませるものだが、もしもわしがおなじものをつくるとすれば、国民をもたのしませるためのものにしたい、ということであった。周候の祭政(まつりごと)の師はほかならぬ受王であったといってもよい。ただし受王はすべてを抽象的な神霊にむかってすいあげたのにたいして、周候はおなじことをしてもそれを国民に具体的にもどした。それだけの差が、後世の史筆では、ふたりをまれにみる暴君と名君とに峻別させた。
さすがに孔子の弟子の子貢は、
「紂(受)を不善というけれど、あんなにひどくはなかったにちがいない。天下でおこなわれた悪いことが、みなかれにおしつけられたのだ」
と、いったように、つぎにおこる九候と鄂候の誅殺も、そのやりかたはたとえば春秋戦国時代にもしばしばおこなわれたもので、受王だけがやったことではない。
宮城谷 昌光 著「王家の風日」 より
時代背景は、中国の商周革命。
600年続いた商王朝の王子「受」は新しいことが好きな頭脳明晰な少年だった。
そんな受も王に即位してから次第に聡明さに翳りを見せる。
西辺の小国に過ぎなかった「周」が次第に勢力を伸ばし、さらに名臣「太公望」を得た。
商の良心「箕子」が度々王を諫めるが、妖婦「妲己」により惑わされていく受王を、太公望の暗躍によって周が追い詰めていく。
今から3000年以上前の時代にあっては、当然宗教心によって人々の心が結びついていたのですが、沙丘の苑台の完成を祝う目的で諸侯を招待し、祖の霊を招かん、として動物の肉を吊るし酒を地に降らせ池にしてしまう様な饗宴を催したのは、いくら祭祀とはいえ、これだけの規模でおこなったのは受王だけだったようです。
この宴の最中妲己を得るのですが、これもどこまでも神秘的な話となっています。
後に周の子孫の間では、商は酒で滅んだと信じられたそうですが、それは考えすぎとしてもお酒には気を付けたいものです。
☆王の声 2018/01/08
商ほど森羅万象をこわがった民族はいない。恐怖は聡明からくる。恐怖心は想像力が招くものといってよい。恐ろしいということは、恐ろしがるであろう自己を意識する恐ろしさである。だから商民族は恐怖心を打ち消すために、さらに見ようとした、さらに知ろうとした、さらに分かろうとした。占いはその重要な手段である。
途中省略
このころの指導者たちは、正しい祭事こそが政治であると信じて疑わない。箕子もそのひとりであるにちがいないが、羨王の暦の作成を、ひとまず、
――犀利にもいたされたことよ。
と、賛辞を吝しまなかったものの、これでは一祀のあいだ天子は祖霊にむかって祈っているばかりだ、人民に背をむけたままではたして政治はできるものなのか、と狐疑にもにたものをすっかり棄てることはできないでいる。人民は神の声よりも、王の、あるいは君主の肉声をききたがっている時代になっているのではないか。箕の国を建てた経験がかれにそう謂わせるのである。
宮城谷 昌光 著「王家の風日」 より
羨王(受の父)は、先祖を敬う心が篤かったが、ある妄想に行きついた。朕が祖霊と国民を支配しているのではあるまいか、祖霊の上にいる朕こそ「帝」(最高の神)である。ついに「帝乙」(乙は羨の本名)と名告ってしまう。
帝乙は王宮で玄奥の主となってしまった。
羨王はさておき、恐怖からはついつい目を背けてしまいがちですが、正しく見ることから文明が進化していくのは当然です。ただ占いに頼るのは、時代がそうだっただけですが。
☆信仰から忠誠へ 2018/01/09
諸侯は当惑した。かつてかれらは歴代の商王から忠誠を強要されたことはない。かれらの信仰の対象は、当然神であり霊であり、これまで王の命令をつつしんでうけてきたのは、その命令が神霊のたちあいのもとに下されてきたものであると知っており、すなわちそれを王の意志というより神霊の意志としてきいてきたのであり、王の命令はかならず商帝国をうるおすものと信じて疑わず、ひいてはみずからの福となってかえってくるにちがいなかったからである。
信仰というのは、極言すれば、理論ではなく一種の好き嫌いであり、宗教というのは人間の感情の所産であるから、神霊につかえる王もまた諸侯の感情のなかに、むしろ実体のないきよらかさで、あるべきものであった。
もっとはっきりいえば、商王とは、王という名さえあればほかになにもいらず、透明な存在であってもよかった。
その王が、まぎれもなく筋骨たくましい軀幹をもち、ある意味ではなまぐさみをもった存在として、にわかに「忠誠というたて糸をよこせ」といってきたことに、諸侯は不快感を覚えた。
宮城谷 昌光 著「王家の風日」 より
帝乙の崩御により、なりたくもなかった王に即位し「帝辛」となる受。しかし、なってみると商の版図は自分の気宇に比していかにも小さく不満だった。
商帝国という、神への信仰心だけで寄り集まっているこの集団は、主従関係というたて糸が弱い、利害関係が絡めばますます脆くなる。自分で占い自分で吉の回答をだすという、占いとは程遠い神の名を隠れ蓑とする専政をやろうとした帝乙にならいこれを踏襲し、さらに、あらたに入朝する諸侯には人質と玉を、譜代であっても玉を差し出させるという、忠誠の証しを求めた。
何時の世でも変わらぬ光景の様な気がします、生臭い独裁。
この日本では、人々の結びつきとして、法治と信仰心が比較的均衡しているかとも思えますが、さて、今が最適かどうかは分かりません。過去を遡れば何時の時代が程よい感じだったんでしょうか、それとも未来への課題でしょうか。主観でしかないですから、正解は無いとも思いますけど。
よく日本人は無宗教だと言われたりしますが、明確なものより、何となく緩い感じが逆に?・・・、そもそも宗教そのものが好き嫌いにすぎませんからね。
とはいえ、気合と根性を前面に押し出した、特有の精神論には閉口してしまいます。筆者も精神論自体は否定しません、ただし、個人を高めるためのものであって、社会に持ち込まないでくだされば。
☆天才は生贄に 2018/01/11
――天子よ。
と、叫ぼうとしたが喉がつまり声がでなかった。そのかわり涙があふれでた。
受王は門閥にこだわらず、有能である者はどんどん登用し、商へ亡命してきた者でも重用した。それが商の内外にあまたいる旧人の反撥をさそい、王は裏切られ、新時代をひらいた矢先に、よってたかって打ちのめされてしまった。
――お生まれになったのが、早すぎたのかもしれない。
と、廉はおもう。天才にはそうした悲運はつきものかもしれない。
大邑商の上も下も、新しい王者の発に犬のように尾をふって従った節操のなさを、廉は背で嗤い、死場所をさがして、東南へむかうことにした。潰走した商兵が梁山に立てこもっているという噂をきいたからである。
宮城谷 昌光 著「王家の風日」 より
この時代に商では、物を動かすことによって利を得ることを見つけ専業とする人々が現れた、商王朝が滅んでからそれを模倣する人々が続出し、かれらは「商のごとき人」という意味で「商人」と呼ばれる様になった。
筆者の推測ですが、この商人がもたらす利に一部の支配者層が魅了され結びつき、政治の軸足が、宗教という抽象的なものから経済という現実的なものへと移っていく転換期だったのではなかったかと想います。
社会が大きく移り変わり行く時の、一瞬の虚を衝かれてしまったのかもしれません。
翻って現代では、インターネットにより世界中が結びつき、情報を動かす事によって利を得る人達も現れてきています。企業も国境を越えて活動しています。商周革命の時の転換が世界規模で起きようとしているかの様です。
世界中の富が一握りの人達に集まり始めています。これは人為を超えたのでしょうか。それともまだまだ続くのでしょうか。
人為を超えた、と審判が下された時、何がおきるのでしょうか。
☆天意 2018/02/22
こざかしい人の知恵をうちすてるような澄明さが、天空そのものであった。
――天に通ずる人の生きかたとは何か。
途中省略
おのれの才能も利害もなげうったようなひたむきな自己を育てる時があったにちがいない。それを純粋な誠心とよべば、それこそが天にとどく声なき声ではなかったのか。
途中省略
人は人とめぐりあうことで、運命の変転が生じるようにみえるが、それはじつは天意のなかにあることではないのか。あらかじめ人の運命が天ににぎられているのであれば、なにをやってもむだだというのではなく、天をうごかすほどの魂魄の声をたてねばならぬ。そうおもえば、人には二種類あるような気がする。人をうごかし、人にうごかされる人と、天をうごかし、天にうごかされる人とである。人に認められやすいことをやっていては、しょせん人造と人知のなかでみうごきできなくなる。それでも、そこで自足する者は幸せといえようが、范雎の志尚はそうではない。
――天はつねに自分の頭上にある。
宮城谷 昌光 著「青雲はるかに」 より
時代背景は、中国の戦国時代末期。
大望を抱き諸国を遊説するが、虚しさだけを持ち帰ってくる「范雎」。
世のしくみは利害で成り立っているとみなしてきたような男だったが、親友「鄭安平」の妹の足を治すことに己の運命を託してみようと思い立つ。
高価な薬代を稼ぐために魏の悪名高い家に仕官するが、あらぬ疑いをかけられ半死半生にされた上、執拗に命を狙われる。
秦の宰相となり戦国の世を終焉に導いてく礎を築いた范雎の物語。
天を動かすほどの魂魄の声とは如何ほどのものか、とはいえ、それを分かったと思ってしまうのも、しょせんは人知の中から抜け出せていない証でもある訳ですが。
天を動かし、天に動かされた程の人とは、闇の中を手探りで独自の道を歩き続けた人なのかと思えます。
天も、案外気紛れなのかもしれませんね。
☆大愚行 2018/02/23
「むくわれる苦労というものは、たかがしれている。偉人というのは、むくわれぬ苦労をつみかさね、いわゆる愚かさをくりかえして、希少の成功をつかむものの、なお虚しさのなかにいる人のことではないでしょうか」
范雎は感心して膝をたたいた。
「偉人とは愚者にすぎず、大成功とは大愚行にすぎぬ、か。甘安どのは老子にまさる」
宮城谷 昌光 著「青雲はるかに」 より
范雎の志の高さと苦難の道を想えば、他人が切り開いた道を歩きたくないという程度の、ただの中途半端な自分の愚かさに、心が波立つ。
☆自然の理 2018/02/23
――この男は士にすぎぬ。
と、感じた。士は己を知る者のために死す、という。その士であり、けっして国家の安泰を計る社稷の臣ではない。そうおもいつつも范雎は礼容をくずさず、白起の過去の大功を褒めた。楚の首都を陥落させたこと、伊闕における戦いなど、挙げればきりがない。
だが、白起はその褒詞ににこりともせず、
――皆、利を形勢に計る、自然の理なり。何の神かこれあらんや。(『戦国策』)
と、いい、自分の戦いは理づめでおこなってきたものばかりであり、神わざなどはひとつもなく、その理で邯鄲包囲の機をたがえたことを照らせば、これからの戦いに害ばかりがみえて、利がみえない、といいきった。
宮城谷 昌光 著「青雲はるかに」 より
まるで項羽を彷彿とさせる「白起」将軍(時代的には白起の再来を思わせるのが項羽)も、人を殺しすぎるのが玉に瑕で、その最期も秦王から自裁を賜ってしまうのは、これも自然の理なのかもしれません。
秦という国は、前出の百里奚しかり、宰相のような高位であっても他国から招き入れて成功している例が多いんですが、それも、函谷関の奥に位置しまだ文化程度が遅れていた国体であり、また愚民化政策をとっていた事も重なり、人材不足だったことが片面の結果かと思いますが、始皇帝により中国を統一するも、始皇帝亡き後に大乱となってしまったのも、人材を育てることを怠ったのが仇となったもう一面の結果であり、これで自然の理が完結したのかもしれません。
具体的には、秦の法があまりにも厳しすぎて、秦の中では上手く機能していたとしても、中国全土の天下万民には受け入れられなかった、それを変えることができなかった。ということでしょうか。これは、この物語とは直接関係無いんですが、時代の流れを考えるとこんなことを想ってしまいます。
☆無形なるかな 2018/05/11
――なにゆえ平王は讒言を信じたか。
自分なりにつきつめて考えてみる必要のあることで、楽毅は呉と楚と越について書かれたものを、とくに熱心に読んだ。むろん孫子の兵法書は暗記するほどくりかえし読んだ。そうするうちに、
――なるほど、人も兵法も、じつにあいまいなものだ。
ということに想いが到った。
途中省略
かならず勝つという戦いができるのは、一生のうちに一度あればよいほうであろう。むろん孫子はそんないいかたをしていない。必勝の法をさずけてくれてはいるのだが、楽毅はむしろ、その法にこだわると負けるのではないか、とおもった。兵法とは戦いの原則にすぎない。が、実戦はその原則の下にあるわけではなく、上において展開される。つまり、かつてあった戦いはこれからの戦いと同一のものはなく、兵を率いる者は、戦場において勝利を創造しなければならない。
宮城谷 昌光 著「楽毅」 より
時代背景は、中国の戦国時代。
中国の中原からは東北に位置する小国「中山」の宰相の嫡子「楽毅」は、大国「斉」の都に単身留学する。
しかし、小国でありながら気位だけは高い暗愚な君主の舵取りによって、中山は周辺諸国から孤立していく。
西隣の大国「趙」が用意周到に侵略を画策している時に帰国した楽毅は、国家存亡の危機を救うべく立ちあがる。
奮闘空しく中山国は滅亡してしまうが、小国から解放されたその大才が徐々に天下に表れて行く。
後の世の、「劉邦」「諸葛孔明」も敬慕したという楽毅の物語。
古事を知ることは、おのれの至らなさを知ることである、と言われますが、その古事に捉われすぎてしまっても柔軟性を失ってしまいそうで、その匙加減は簡単そうに思えて実は答えが見つからないくらい難しそうです。しかし、楽毅は、孫子の兵法の流れを汲みながら孫子に捉われることもない、そこには楽毅の兵法ともいうべき自然体の将軍がいた。
こんな将軍の下で働いてみたいものです。実は、筆者は楽毅に付き従った無名の士の生まれ変わりなんです。夢に見たんですけど?
☆不動の心 2018/05/15
――支配者は変容する。
同門の田氏とくりかえし楚の平王について論じたことはそれであった。楽毅はたしかに中山の希望として太子をみた。が、その希望を過信すると欲が生ずる。その欲が太子の欲と適えばよいが、ずれると、怨みが生ずる。つまり明るい想像は、その想像に固執すると、暗い妄想に変わりかねない。
――薛公をみよ。
薛公に会って以来、つねに自分にいいきかせていることは、おのれへのこだわりを棄てよ、ということである。薛公は斉の宰相であった靖郭君の子として生まれながら、その莫大な家産にみむきもせず、諸国漫遊の旅にでたときく。それはいっさいの所有を放棄した者の姿である。無欲を衒う者は名誉欲にとらわれるという坎穽にはまりこむものであるが、薛公にはそれもない。
――自分もそうありたい。
名誉にも不名誉にも逃げない。性情のままの自分でありたい。
宮城谷 昌光 著「楽毅」 より
蛇足ですが、「薛公」は前出の「孟嘗君」のことです。
孟嘗君の恵風を受けたことが楽毅にとって生涯の財産となったようですが、孟嘗君の影響力もまた計り知れないものであったことが再認識されます。孟嘗君にも楽毅にも、相通ずるところがあったのは間違いないところでしょう。
欲望にも名誉欲にも捉われず、名誉にも不名誉にも逃げない。記憶はしておきたいですが、凡人には自信ありませんです。
☆孤独の将 2018/05/21
「備穴」
すなわち敵の掘る穴に備える兵法は、その話のなかにあったもので、孫子の兵法という抽象論とはちがう具体性にみちており、若い楽毅の脳裡に強烈に灼きついた。
だが、あとになって墨子の兵法と孫子の兵法とをくらべてみると、いちいちこまかな指示をださず、具体性に欠けるとおもわれる孫子の兵法のほうがすぐれていると認識するようになった。
途中省略
孫子の兵法では、戦いというものを、武器と武器の衝突、城壁と雲梯の接触とはみなさず、人と人との争いであるという前提から、人とは何か、その人がつくる国家や軍隊とは何か、という洞察に主眼が置かれている。人という個がもつ虚実、その人が集まってできる組織がもつ虚実、そのふたつの虚実が戦争ではかさなりあって展開される。孫子にとって戦争とは、兵士が戦場にむかう以前にすでにはじまっていて、戦わずして勝つことを至上としている。
途中省略
――孫子の道を知る者は、かならず天地に合う。
と、教えられたことがあるが、なるほど、いまの楽毅と語りあうことのできるのは、天と地しかなかった。
宮城谷 昌光 著「楽毅」 より
墨子の兵法と孫子の兵法との違いは、守城戦という現実論と、戦争そのものの理想論の違いであるのかな、と思えます。
理想論と現実論として捉えれば、理想論が先にあって、その理想をいかに現実に落とし込んでいけるか。しかし、戦いとは現実であり、その現実をいかに理想に近づけていけるか。ゆえに、理想論である孫子の兵法の方が高見である、と筆者も思います。
とはいえ、これらの高名な兵法であっても、どちらかに偏っているのが現実であって、それらを上手く処せるかに将器が問われるんでしょうか。
ところで、理想論とは「理に想う」よって、その思想が理に適っていなければ理想論とは言えないのかな、と考えているんですが、孫子の兵法は、人と人との争いの中にある自然の理を見ているから、孫子の道を知ると天地に合う、と言われるんでしょうか?筆者の愚考ですが。
☆無形なるかな無声なるかな、楽毅に至る 2018/05/25
「微なるかな微なるかな、無形に至る。神なるかな神なるかな、無声に至る。ゆえによく敵の司命を為す」
そう心のなかでつぶやいた楽毅には、にわかに孫子の教義があきらかになった。戦いは戦場にあるばかりではなく、平凡にみえる人の一生も戦いの連続であろう。自分が勝って相手をゆるすということはあっても、自分が負けてゆるされるということはない。それが現実なのである。相手にさとられないように戦い、それでこそ、敵の運命を司ることができる。真に兵法を知るとは、そういうことなのである。
宮城谷 昌光 著「楽毅」 より
丹念に理を積み重ね、さらに孫子の兵法という翼を身につけ、自由に飛翔する心眼を得た先に玄奥を見る。
現実に行き詰まること無く、理想に捉われることも無い、ただ単に兵法を知っただけでなく、深く静かにその才能を存分に発揮した楽毅。
持ち上げすぎでしょうか。しかし、楽毅と比すれば文字通り微なるかな存在の筆者には、深い溜息と尊敬の念しかありません。惜しむらくは、あまりにも玄奥すぎて人々の記憶にも残らなかった。後に劉邦が興味を示さなかったら、あやうく、それこそ無形、無声のまま静かに歴史の一頁に佇んでいたのかもしれません。それでも、そんなに有名というほどに至っていませんが、今頃は、何やら下界が少し騒がしいな、とでも思っているかもしれませんね。
☆幽深なる遊び 2018/05/27
「不敬なことをいいますが、楽将軍の戦術と戦略には、遊びがある。その遊びが、わたしを救ってくれるのだと気づきました」
恵泛は目で笑った。
「遊びとは、おどろいた。生死の境での遊びですか。ふうむ・・・・・・、楽乗どのは、幽深な何かをみぬく視力をそなえたようです」
「こうも考えました。人が十の力を十だせば死ぬ。楽将軍は八でとめる。それにもかかわらず、敵が楽将軍をみれば、十以上の力をだしているようにみえる」
宮城谷 昌光 著「楽毅」 より
「戦いは、生きるためにするのである」「砦を死守しようとするな」人の死を美化したりしない楽毅の思想と、凡人には思いつかない奇想天外な策戦が、戦場という不条理で狂気が渦巻く様な場にあっても、兵達に遊びを感じさせるのでしょうか。
人の死を美化する様な行為は、他人の命を軽視していることを悟られない為の擬態(隠れたつもりでも丸見え)であるが、しかし、一方で自分の命は殊更愛おしいという、愚昧な人間のすることだと断じて不都合はないと思っています。
ただ困ったことに、何時の時代でも大なり小なり似たようなことがあるんですよね。