司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」上巻
☆竜馬参戦ス 2018/09/16
「海を越えて幕軍の本拠である小倉城を奪いとることであります」
「ほほう」
竜馬はさすがは高杉だと思った。小倉は小笠原十七万石の城下で、この藩は代々九州探題の役目を兼ね、一朝事あるときは九州の諸大名を指揮することになっている。
途中省略
「坂本さんに、わが艦隊の半分をまかせるゆえ、幕府海軍を制圧してもらえんだろうか。あとの半分はわしがひきいる」
と、高杉はいった。
途中省略
「覚兵衛どん、みろ」
と、望遠鏡を貸した。
長州人は、たった五百人の兵で上陸しているのである。奇兵隊が主力だから、もともとの武士ではないのだ。町人、百姓の子弟である。
それが、半洋式化された小倉藩の正規武士団を、寡兵をもって押しまくっているのだ。
敵の弾雨のなかで散開し、遮蔽物を利用しつつ前へ前へと駈けてゆく。
押されて逃げるのは、代々譜代大名の家柄を誇ってきた小倉小笠原家の藩士である。
「長州が勝っちょりますな」
「いや、長州が勝っちょるのじゃない。町人と百姓が侍に勝っちょるんじゃ」
そのことに竜馬は身ぶるいするほどの感動をおぼえた。
たったいま、竜馬の眼前で、平民が、ながいあいだ支配階級であった武士を追い散らしているのである。
――革命はきっと成る。
という意味の感動と自信が、竜馬の胸をひたしはじめた。
「天皇のもと万民一階級」
というのが、竜馬の革命理念であった。
「アメリカでは大統領が世襲でない」ということがかつての竜馬を仰天させ、
「その大統領が下女の暮らしを心配し、下女の暮らしを楽にさせぬ大統領は次の選挙で落される」
という海外のはなしが、竜馬の心に徳川幕府顚覆の火を点ぜしめた。
そこは、土佐郷士である。
土佐郷士は、二百数十年、藩主山内家が遠州掛川からつれてきた上士階級に抑圧され、蔑視され、斬り捨て御免で殺されたりしてきた。
その郷士たちの血気の者は国をとびだし、倒幕運動に参加しつつある。天下一階級という平等への強烈なあこがれが、かれらのエネルギーであった。
その土佐郷士の先頭に立つのが、竜馬である。
平等と自由。
という言葉こそ竜馬は知らなかったが、その概念を強烈にもっていた。この点、おなじ革命集団でも、長州藩や薩摩藩とはちがっている。余談ながら、維新後、土佐人が自由民権運動をおこし、その牙城となり、薩長がつくった藩閥政府と明治絶対体制に反抗してゆくのは、かれらの宿命というほかない。
天は、晴れた。
ユニオン号の土佐人たちは、順次望遠鏡をのぞきつつ、平民が支配階級を追ってゆく姿を、ありありと見た。
「あれが、おれのあたらしい日本の姿だ」
と、竜馬は自分の理想を、実物をもってみなに教えた。竜馬の社中がかかげる理想が、単なる空想ではない証拠を眼前の風景は証拠だてつつある。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
竜馬参戦ス 2019/02/07
平等と自由。
もとより、与えて貰えるものでは無く勝ち取るものであって、一時の平等と自由に安穏な暮らしを続けていると、やがて見せかけだけのものになってしまいそうだが、それも人の世の倣いなのか。
人の世の秩序は権力があってのもので、その権力が弱まれば混沌、腐敗してしまえば偏る。一見盤石の様に見えて、実は案外不安定な、綱渡りでもしている様なものなのかもしれない。
自由の老舗とも言える欧米では、個人主義と言われていますが、日本も個人主義へと進んで行くのか、それとも独自の進化を遂げるのか。
昔、と言ってもつい数十年前迄の村社会が、狭い空間で共同生活をしていた頃に比べて現代は、生活空間が広くなり生活様態も多様化してきている。この間、我が国も遅れ馳せながら自由というものに視点が向いて来ているのも、環境の変化が背景にあるのは間違い無いでしょう。
人も変わりたいなら、環境を変えるのが一番手っ取り早くて、自分で環境を変えてしまうか(なかなかの荒業)、環境が変わる様に吠えるか(声を上げるか)、誰かが変えてくれるのを待つか(自分の思い通りになるかは運任せ)、はたまた自分に合った環境を探して飛び出してしまうのか。
結局は、皆其々が自分にとってそこそこ(理想は無理かな)居心地の良い環境を標榜し暮らしていれば、そうこうしているうちに、社会の流れも自然と出来上がって行くものなんでしょう。権力を腐敗させない事は、大前提ですがね。
現代はインターネットにより、庶民でも個人の意思を簡単に表明できる武器を手に入れた事も大きい(刀は失ったけど)。幕末期は限られた志士のみが奔走していたから、それで革命を成功させるには、強力なエネルギーを必要とした事であったと思う。これからは、一人々々の力は小さくとも、数が集まれば大きな力になり世を動かしうる事例は既に出現し始めている。
後は、それが単発の打ち上げ花火で終わらぬ様に、一瞬の風の強さだけでなく長く扇いでいられる持続力が重要なのかと思います。
今後、平等と自由がどの様な形態へと流れ着くのかは分かりませんが、筆者的には、今更欧米追従するのも面白くないから、世界でも唯一無二の、自由でありかつ少々共同体的な社会になれば良いかな、と秘かに思っております。
因みに筆者は、保守と革新、分類としてはどちらでも無いと自分では思っています。社会(制度)は、時代と共に相応に変わって行くのが正常な姿である、と思っているだけです。
☆「勤王」 2018/09/17
下関の長州藩陣屋にゆくと、高杉が手をとって感謝した。
「坂本さん、もう一度頼みます」
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(それにしても幕府海軍とはなんと腰ぬけなことだ)
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戦意の問題であろう。幕兵もそれに協同する諸藩の兵も、本気で長州と戦う気がないのにちがいない。
幕府も諸藩も、なるほど長州藩の過去の横暴やあざとい権略ぶりを憎んではいる。しかし長州藩がかかげている勤王主義という「観念」については憎みきれない。
尊王という言葉がある。京の朝廷を尊ぶという概念で、これは当節、佐幕・非佐幕をとわず読書階級のごく普遍的な社会思想になっている。二十世紀後半の日本で言えば、民主主義、といった程度のごく常識的でありきたりな概念である。
が、勤王という言葉はちがう。幕府を倒して京都朝廷を中心に新統一国家をつくろうという革命思想である。尊王の行動化した思想、といっていい。
幕府艦隊の将士も、すくなくも知識人であるかぎり尊王家であるはずだった。勤王家でないだけのことである。勤王家でないことを恥じている者もいるにちがいない。自然、長州藩のかかげる「勤王」の戦旗には、闘志もにぶらざるをえないのであろう。
(歴史は動いている)
と、竜馬は相手の弱さにおもわざるをえない。回天の夢は、ここ数年のあいだにあるいは夢ではなくなるのではないか。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
「勤王」 2019/02/10
「尊王」という言葉がこの時代には特別な意味を持ち、その思想の基になる倫理道徳があった様に、現代であるなら、日本なりの、「民主主義」の思想の基となる倫理道徳になろうかと思いますが、ここは、これについての筆者の基本的な考え方であります。
以下は、正確性は保証いたせません。
儒教というものは、古代中国の君主間の礼儀作法に起源を見る事ができる。ただ、作法があまりにも煩雑になり過ぎた為、君主でも薄れたのだが、それを孔子が復活しそこから発展させたもので、よって儒教には礼儀作法の概念が基にある。宗教と言うには少々毛色が変わっている様にも思えますが、ここでは宗教としておきます。現代の儒教がどの様な変遷を辿ったのかは知りません。
儒教というものの概念を礼儀作法として見てみれば、この作法の部分が「学ぶだけでなく、踏みおこなう」、に繋がったのかなと、単純な連想ですがそう思えます。この「踏みおこなう」、にまで踏み込んで教養としていた事が、徳川幕府の大きな過ちだったのではないか、と考えている訳です。
国家としての倫理道徳教育は、国家としての意思を示す為にも必要であるが、作法(実践)にまでは踏み込まない。とさえ、明確に定義してあれば、例え、古式ゆかしきものであろうが、何であろうが良いのではないかと思っています。
日本の場合、つい実践にまで踏み込んでしまいそうですが、思想に関わる事ですからそこは決別するべきでしょう。
作法であれば、華道、茶道、武道等々、道と呼ばれる様々なものが伝承されていますからね。関心があるなら、人其々好きなものを学べば良いのではないでしょうか。
「和を以て貴しとなす」、あえて、自由と反対の思想も重要で、やがて、自由ばかりになってしまわないとも限らない、予めくさびを打っておくのも策ですね。もっとも、格差を助長する様な思想を、国家として標榜することもできない筈ですが。
現実問題、日本は宗教色の淡い国民性なんだから、その代りとなる何らかの柱は必要でしょう。
☆亀山社中解散 か? 2018/09/19
下関をひきあげて根拠地の長崎にもどった竜馬には、窮迫が待っていた。
途中省略
なにしろ、竜馬らの社中は下関海峡で大いに働いたが、これは「商売」ではないため一銭にもならなかった。
ならないどころか、武器弾薬こそ長州藩のものを使ったとはいえ、船の燃料や兵員の糧食は、竜馬の自前だった。
自前の援軍だったといっていい。しかも勝ったところで、長州藩から報酬をもらうわけでもない。
(えらい大貧乏したな)
と、竜馬は、長崎にもどってから、毎日そのことで頭をいためている。
途中省略
「いっそ、社中を解散するか」
とまでいった。
陸奥はおどろいた。
「正気ですか」
と念を押したのは、亀山社中を解散すれば、竜馬の新日本構想は消滅し去るといってよく、もはや地上に坂本竜馬は無いにひとしい。
「水夫火夫の賃銀がはらえぬ。このさき、払えるめども立たぬ」
「さすがの坂本さんも万策つきたとみえますな。私は天下に、こまらぬ男というのは長州の高杉晋作とわれわれの坂本竜馬だけだと思っていたが、これはちがったな」
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高杉晋作は平素、同藩の同志に、「おれは父からそう教えられた、男子は決して困った、という言葉を吐くなと」と語っていた。どんな事でも周到に考えぬいたすえに行動し、困らぬようにしておく。それでなおかつ窮地におちた場合でも、
「こまった」
とはいわない。困った、といったとたん、人間は智恵も分別も出ないようになってしまう。
「そうなれば窮地が死地になる。活路が見出されなくなる」
というのが、高杉の考えだった。「人間、窮地におちいるのはよい。意外な方角に活路が見出せるからだ。しかし死地におちいればそれでおしまいだ。だからおれは困ったの一言は吐かない」と、高杉は、陸奥にもそう語っていたという。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
亀山社中解散 か? 2019/02/11
「困った」、今風に言えば、「思考停止」かな。なんか具体的な響きが出て来る。
口癖として「困った」、と言ってしまう事はあれど、「思考停止した」、とは言った事も無ければ聞いた事もない。
でも、「困った」と言ってしまった時は、その実は「思考停止した」、と言ったも同じということなんですかね。
そう考えると、「困った」の口癖も、困ったもんだったんだな。
桂なども、気の毒に思って藩に掛け合ってくれていたが、藩の方も貧乏してしまった後だけに竜馬にまで手が回らなかった様です。
☆日和見な土佐藩 2018/09/21
「溝淵は、藩の事情をそう言うちょったかネヤ」
と竜馬は言い、しばらく思案した。下関で会った中岡慎太郎も、
――長州大勝いらい、藩はたいそう動揺している。むろん頑迷な守旧派や佐幕家は以前どおりだが、容堂公側近の優秀な若手藩吏はこのさい、幕府と手を切らぬまでも、薩長と仲良くやってゆくほうがいい、という思案になっている。乾退助、後藤象二郎らはそうだ。谷守部も、むろんそういう思案に変わっている。
と、竜馬にいった。それとこんどの溝淵が伝えた藩情とはぴったり符号している。
「洞ケ峠の筒井順慶、と死んだ武市さんは藩上層部の物の考え方をそう攻撃なされておりましたが、そのとおりでありますな」
途中省略
若い中島作太郎はおさまらない。
「日和見などというものは、男として武士として最も恥ずべきことではないですか。卑怯者の上士どもの手に牛耳られているわが藩が、そこまで堕落していることは許せませんよ」
「それは四書五経の輪講の座ででも喋れ。世の動きというものはな」
と、竜馬はいった。
「筒井順慶できまるものだぞ。時勢も歴史もそうだ。新旧はげしく勝負をする。いずれかが勝つ。勝ったほうに、おおぜいの筒井順慶がなだれを打って加盟し、世の勢いというものが滔々として出来あがってゆくのだ。筒井順慶は馬鹿にならん」
「坂本さんは武市さんとちがう」
と、中島は、不服そうにいった。
「武市さんなら、そういう不潔さ、不純さをゆるさない。坂本さんはゆるす。許すどころか、その勢いを使って何かしようとする」
「武市は善人でおれは悪人だ」
途中省略
(ひょっとすると――)
と、ある種の希望をもった。亀山社中の窮状を打開する糸口を、「土佐藩の新情勢」という方角からひき出すことが出来るのではないかと思ったのである。
「溝淵とは、会う」
竜馬が藩吏溝淵に会うということには、中島作太郎をはじめ、社中の論客のほとんどが反対した。
他藩(紀州藩)出身の陸奥陽之助までが、
「あなたは二度までも脱藩した。かつ、土佐藩に対しては平素、白眼をもって見ている。だのにここで、その藩の俗吏に会おうとされるのか」
と、きびしく論難した。
「土佐ッぽの頸の骨は硬すぎる」
竜馬はそんなことをいった。
「武市のように節を曲げぬ、という点ではこの頸の骨の硬さは大いに験を発揮するが、時勢が複雑をきわめてくると頸が左右にもまわらぬことになる。社中の土佐ッぽにはその傾向があるが、紀州人である君までそんなことをいうのか」
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
日和見な土佐藩 2019/02/12
いつも通り、人間の本質を突いて来る竜馬。
中島作太郎の不服も分かるけれど、背に腹は代えられぬ事情があっての窮余の策でございますから。と、言うのは簡単なれど、なかなか意地を捨てきれぬのも、これもまた人間の本質なのでござりまする。
少しは頸の骨でも柔らかくするか。
それにしても、この一連の表現が面白い。
法螺ケ峠の吹き放題、そんなのは、許せないな。
☆後藤象二郎(穴のあいた大風呂敷) 2018/09/22
乱世の雄といっていい。
頭が粗大で細密な計画性にとぼしいから治世の能吏とはいえないであろう。
乱世にはいい。物事を大ざっぱにつかみ、果断な行動力があり、度胸がある。人を人臭いとも思わない。後藤家は戦国の豪傑後藤又兵衛の末裔といわれているが、象二郎のような男も、戦国時代にうまれれば、もっとおもしろい人物になっていたろう。
幕末も乱世だ。
しかし、社会制度は頑固な幕藩体制のなかにあり、戦国時代とは事がちがう。ただしその幕藩体制も、時勢の波とともにどうにもならぬところまできている。
一例をあげると、土佐藩の老公容堂は藩の軍事を洋式化しようとし、上士たちにも洋式銃を習わせようとした。
これが、上士の反撥を買った。
「大殿様や殿様は、われらを足軽になさるおつもりか」
戦国時代以来、鉄砲は足軽がもつもので士格の者は馬上で槍、ときまっている。「槍一筋の家」というのはそこからうまれた言葉だ。
つまり、持つ武器で身分、階級がきまっていた。西洋の軍隊とはその点がちがう。このことは上士の誇りを傷つけ、信じられぬほどの深刻な衝撃をあたえた。ごうごうたる反対論が出た。反対論は、分類すれば保守的攘夷論である。
一例だけでもこうである。こういう状態のなかで旧態を破って新政策を打出すには、戦車のような実行力と神経の強靭さを必要とするであろう。
容堂が、年若い首相として後藤象二郎を抜擢したのは、そういう理由による。後藤の役目は、旧秩序をたくみに破壊しつつ藩の新体制をうち出してゆくところにある。後藤の豪放で陽気で果断な性格が、これには適役だった。
「後藤の大風呂敷」
といわれた。非常な雄弁を持ち、しかも細事は語らず、いつも大風呂敷をひろげてみせて、人を煙に巻いてしまう。古代中国の世界に登場する東洋的豪傑が、にわかに日本の幕末にあらわれた、という観がある。
幕末、英国公使の通訳官として活躍するアーネスト・サトウは、この時期の翌年、土佐沖の英国軍艦の艦上で後藤に会い、その著「幕末維新回想記」でこう述べている。
「公使(英公使パークス)はすっかり後藤に惚れこんでしまった。いままで会った日本人のなかで最も聡明な人物のひとりだというのである。私も、人格的迫力のある西郷をのぞけば、彼以上の人物はあるまいと思った」
後藤にはそんな聡明さがある。時勢を見ぬき、機敏に把握し、物事の紛争をまとめるについても、相手の心理や欲望をたくみにとらえて思うままにひきずってゆく。
妙な男が時勢のなかに飛びだしてきたものだ。底に穴のあいた大風呂敷だといっていい。
もっとも、
「穴のあいた大風呂敷」
といっても、幕末、後藤が老公容堂の威を背に借りて縦横無尽に活躍した時期には、人はあまり気づかなかった。ところが乱世がおさまり、維新になり、後藤が維新生き残りの功臣として参議、伯爵などになるにおよんで、
――どうも後藤伯はおかしい。
と、世間の見る目がかわった。つねに巨大な計画は企てるのだが、何をやっても失敗した。
金を湯水のようにつかうくせに、理財の観念が皆無といってよく、さらに金に公私の区別がない。
「後藤は大きすぎる。シナの皇帝にでもうまれていればよかった」
と、勝海舟などがよくいった。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
後藤象二郎(穴のあいた大風呂敷) 2019/02/13
乱世の雄。
生まれた時代が、半分ぐらいは嵌ったかな。
後藤のような人間に限らず、生まれた時代に合わずに鬱勃と空しく生を終えるか、抑えきれずにお縄を頂戴してしまうのか、何時の時代にも少なからず存在して居るんだろうな。・・・ああ、いと哀れ。
「大殿様や殿様は、われらを足軽になさるおつもりか」
ただ尊大なだけだったり、未知の事や、不慣れな事に拒否反応を示す、こんな愉快な人達も、それはいつの時代でも何処にでも普通に居らっしゃるものでして。・・・はあ、いと哀し。
この辺りから、登場人物も多彩になって参ります(この頁では、です)。人の役割、存在意義などは、それこそ人智の及ぶところでは無い、と痛感するのです。
それにしても、この時代は人物が大人だなと思う。現代は、寿命は長くなったかもしれないが、成長も遅くなっているというか、同年代であれば昔の人の方が遥かに大人でしょうね。・・・はあ、無惨ナリ。
この後、後藤がまた良い働きするんですな。ちょっとだけほの字に。勿論、過去の話だから冷静に見れるんですけどね。
☆白昼堂々の男 2018/09/23
要するに、土佐藩の長崎出張藩吏溝淵広之丞は、竜馬と後藤象二郎の顔合せをやりたいのである。
「頼む、竜馬、土佐藩のためだ」
「土佐藩のためねえ」
竜馬はくびをかしげた。たかが土佐藩のためというのが気に入らない。
「広之丞、おらア、土佐藩に見切りをつけて脱藩した男だぜ。土佐藩だっておれのことをよく思っていない証拠に、一時は下横目(下級警吏)の岩崎弥太郎が、大坂くんだりまでやってきておれの身辺を嗅ぎまわっていたぜよう」
「あれはむりもない。藩ではおぬしを、吉田東洋殺しの下手人の一人とみていたのだ。なにしろおぬしの脱藩が文久二年三月二十四日、東洋の暗殺が同四月八日、日が接近していたから疑惑をもたれるのはむりもなかったろう」
「それが腹が立つ」
「なぜだ」
「坂本竜馬が人を闇討するような男だと思うか。故郷の者にそう思われただけでも、無念じゃ。広之丞、土佐藩への恨みはこの一事ぞな」
「その一事か」
「男は、わが思うおのれの美しさを守るために死をも厭わぬものぞ。坂本竜馬は白昼堂々の男であるとわが身をそう思っている。なんの闇討をする男かい。思うてみれば故郷ほどそういう自分を知って呉れぬものらしい」
途中省略
「竜馬、故郷とはそういうものぞ。裏返していえば故郷への想いもそういうようなものであるだろう。懐しくもあり恨めしくもあり、想いの丈がつのって、愛憎こもごもいたる。おぬしの土佐藩への思いは、愛しているがゆえに恨みも深いのだ」
途中省略
「いや、ついわれもない繰り言をいった。仕置家老の後藤象二郎に会おう」
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
白昼堂々の男 2019/02/14
「白昼堂々の男」
現実主義者の竜馬と言えども、おのれの美学に囚われてしまっていた様だ。
まるで、何かに憑りつかれたかの様に、白昼堂々をおのれに科していた様に思える。
無謀とも言えるその行動は、心優しき竜馬が、心を鬼にするための儀式だったのかもしれませんね。
☆思想や節義は膏薬のようなもの 2018/09/24
なにしろ、大仕事であった。
この場合、竜馬は郷士の代表、後藤は上士の代表とみられるべき存在である。郷士・上士の双方、二百数十年のつもりつもった感情があるうえに、とくに近年は勤王・佐幕にわかれて流血の惨をくりかえし、怨恨は双方に深い。その首領同士が、一堂に会して手をにぎろうというのである。
途中省略
「そのかわり」
溝淵は情けなさそうな顔でいった。
「上士・郷士の双方から裏切り者同然の目で見られるだろう」
「世間は料簡のせまいものだ。これだけはどうにもならぬ。料簡がせまいといえば、あとできいたことだが、おれの社中の連中が、後藤に剣の舞を見せたそうだな」
途中省略
「普通の人間ならあの一件だけでおれに会わぬところだ。普通の人間ではないらしい」
「左様、普通の人間ではない」
「度胸もあるな」
竜馬も、そのことに感じ入っていた。それほどの男ならこのさき、共に火焔のなかでもくぐってゆけると思ったのである。
途中省略
その対面である。竜馬は、薩長連合を遂げたときよりもこのときのほうが、むしろ思い決するところが深い。
「天下の事、どうすればよいか」
と、後藤はまず水をむけた。
「まず貴殿のご意見を承りたい」
竜馬は、無愛想にはねかえしている。
途中省略
後藤は、開化論を言い出した。
日本は、開化せねば亡びる、攘夷論者の血気だけではどうにもならぬ、というのが後藤の意見で、この点、竜馬は異論はない。
それは対外論である。
対内論になると、後藤の意見は大藩の家老らしく一も二もなく佐幕論であった。
「空論ですな」
竜馬は、はじめて議論の口火をきった。
「貴殿のいうことは空論にすぎぬ。佐幕論というのはもはや成り立たぬ議論だ」
竜馬はいう。開化論はいい。欧米は産業革命以来、国力を伸張させた。日本も産業をおこし貿易を盛んにし、国を富ましめ、強兵を養い、欧米の侵略にそなえねばならぬ。この点、異存はない。しかしそのような近代国家に生まれかわるためには統一国家をつくらねばどうにもならぬ。いまのごとく朝廷・幕府の二重構造では国家の体をなさぬ。欧米なみの強力な国家は出来あがらぬ、と後藤の論をいちいち説破すると、後藤もさる者で、それに一言の反駁も加えて来ない。竜馬の論にうなずきつづけて、ついに、
「わしも竜馬の党になる」
といった。竜馬が拍子ぬけするほどのけろりとした転身ぶりである。
途中省略
このころの竜馬は、革命家である反面、一個の思想家としての風姿を帯びはじめているが、後藤の場合は頭のてっぺんから足のさきまで政治家であった。政治家的性格だけで後藤象二郎という人物はできあがっている。
幕長戦争における長州の勝利で、後藤はすでに一変しているのである。時勢は従来の佐幕家にとって思いもかけぬ方向にゆくらしい。それを後藤は機敏に察した。
(薩長が天下をとるかもしれぬ)
と、後藤は見た。
とすれば、土州としては指をくわえてながめているわけにはいかない。ぜひ割りこんで武市半平太のころの、
「薩長土三藩」
の時代にもどしたい。しかし、藩内勤王党を弾圧してしまった土佐藩としてはいまさら転換の仕方がむずかしい。
それには、一介の浪人の身で薩長両藩と対等につきあい、無籍者ながら土州を代表している竜馬にたよる以外にない。竜馬に頼り、竜馬をたててゆくことによって薩長のあいだに割りこんでゆきたい。
後藤のこんたんはそれである。だから思想もなにもない。政治家である後藤にとっては思想や節義は膏薬のようなものだ。
飲んで語るうちに、竜馬にもだんだん後藤のそういう全貌がわかってきた。が、竜馬はそういう後藤を軽蔑も軽視もしない。
(回天の大業にはこういう男も必要なのだ)
と思いはじめている。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
思想や節義は膏薬のようなもの 2019/02/15
理想と現実。
人間なら両方持ち合わせていても何ら不思議では無い。
竜馬にも後藤にも、勿論理想はあれど、双方現実的であるがゆえに上手い着地点を見つけやすいんでしょう。
容堂と後藤の場合はどうであったのか。
容堂は理想型だから、後藤が上手く合わせていた。容堂は殿様であるから当然と言えば当然であったとしても、後藤がやり手だったからなのか、細事に拘らないからだったのか。
両者がこちこちの理想主義であった場合は、今更語る迄も無く概ね結果は見えている。
ところが、どんな理想主義者であっても、現実的な部分もあるものでして。
例えば、入れ札(選挙)の時にはバリバリ現実的であるが、運良く(悪く)「先生」という立場になってしまうと、おのれのしょうもない理想しか見えなくなる。
理想と現実の使い分け、間違っていませんか。
公約などは膏薬のようなものじゃ。効き目が無くなったらペタペタ貼り換えればいいんじゃ。
わ、笑うに笑えない。この様な場合は、どんな理想と現実をお持ちなのやら。
☆ただ将来のみ 2018/09/25
本博多町の小曾根の屋敷に帰ると、土州系の同志の一同が顔をそろえて待っていた。
「どうじゃった」
と、菅野覚兵衛が、同志を代表して質問した。またたきもせず竜馬をみつめている。場合によっては竜馬をゆるさぬ、という気組さえ感じられた。
途中省略
「酔った」
といった。大小を投げ出したのは、気に入らねばおれを殺せ、という意味にもとれた。
途中省略
「後藤象二郎は武市半平太の仇であるぞ」
「あぎ(あご・武市の異名)にはいずれおれは冥土であやまる。仇のことはいうな」
「しかし武市を後藤が殺した、という冷厳な事実はおおうべくもないわい」
「覚兵衛、それは当方の言いぶんじゃ。後藤は後藤で、われらをおじの吉田東洋の仇と思うちょる。いや、そういう立場にある」
「吉田東洋は佐幕の奸物じゃ」
「先方は先方で、いろいろ言える。双方がたがいに仇かたきと言い蔓(わご)っては、水戸の党禍の二ノ舞になるばかりじゃ」
水戸藩は、尊王攘夷の先駆藩でありながら勤王・佐幕がたがいに殺しあい、その両党のなかにも小派が分立して相殺戮しあってついに人物のたねが切れ、いまでははるかに時勢の後方に霞んでしまっている。
「後藤が、くだらぬ男なら武市の仇として斬ってもいい。しかし、あれはいまの天下の混乱をおさめるのに一役振らねばならぬ役者だ。芝居がはじまろうとしているのに、役者を殺してはどうにもならぬ」
途中省略
「あいつにとってはこの坂本竜馬はおじの仇の片割れといっていい。しかしあの男は、あれだけの長い酒の座で、ひとことも過去を語らなんだ。ただ将来のみを語った。これは人物でなければできない境地だ」
「それだけか」
「いま一つある。おれとの対話のなかで、半分おれに話柄を与え、半分自分に話柄をひきつけてしかもおれにひきずられない。こういう芸ができる男は、天下の事がなせるとみたが、覚兵衛はそう思わぬか」
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
ただ将来のみ 2019/02/18
水戸の党禍。
お互いの理想が衝突し主義主張をどちらも譲らぬと、やがてどんな結果を招いてしまうのか、実例があると分かりやすい。
大人物は、理想とする未来に思いを定めてそのために現在を考える。同時に、現在のために過去をふり返る。
小人というのは、おのれの想う理想に囚われて、思い通りにならなかった過去に拘ってしまうものなのか?
世の中には、大人物は数えられるぐらいしか居ないのが事実としても、小人だからこそ精進して、少しでも大きな人物になりたい、と思うのです。
☆岩崎弥太郎 2018/09/27
高知城下の鏡川の河畔に、開成館という巨大な建物ができたことは、さきにのべた。
途中省略
役所は、連日、会議ばかりをやっている。
「開成館をどう運営するか」
途中省略
(会議などは、無能な者のひまつぶしにすぎない。古来、会議でものになった事柄があるか)
というのが弥太郎の考えだった。物を創りだすのは一人の頭脳さえあればいい。衆愚が百人あつまっても、「時間がつぶれ、湯茶の浪費になり、厠に無能者の小便がたまってゆくばかりのことだ」と、弥太郎はおもっている。その「一人の頭脳」とはたれのことか。
弥太郎にいわせれば、自分のことである。それだけの自負がある。抱負もある。しかし哀れにもこの男は小役人にすぎない。
途中省略
(やはり宮仕えすべきでなかった)
とおもった。最も無能な者が、単に上士の出であるというだけで上役になり、豆腐屋の鳴き声のような発言をして、それでお役目がつとまっているとおもっている。
(こんな世は、いさぎよく亡びよ)
と思わざるをえない。しかしそれを亡ぼすのは竜馬らの徒輩であろう。弥太郎は、その亡びたあとの世にこそ雄飛するのだ、とおもい、それを思うことによってかろうじて自分の屈辱をいなそうとした。
途中省略
ところへ。
竜馬の社中を藩にひき入れるという話がおこり、それと並行してそれとは別に、長崎に藩立の貿易会社をつくろうという案が出てきた。
土佐商会
という名称にした。商会の長には、藩派遣の長崎留守居役がなる。「留守居役」といえば藩の大使、公使にあたるもので、江戸、京都、大坂におかれており、上士のなかから選任される重職のひとつである。
途中省略
「弥太郎をそれにする」
と、後藤は、三百年の伝統をやぶって上士以外の階級から驚天動地の大抜擢を断行した。弥太郎は、それを承けた。
途中省略
(なんたる濫費)
後藤の、である。藩財政が窮迫しているというのに、後藤は藩費を長崎で湯水のようにつかっているのだ。
むろん、酒と女にである。
(とほうもない男だ)
と、弥太郎は腹が立つより、後藤という男が人間以外のばけものにみえてきた。
途中省略
「軍艦を買う」
と藩に金を請求しては丸山へ行って一斗樽から金銀をぶちまけるようなやりかたで遊んでいる。
弥太郎はさっそく帳簿を整理して、出費の数字を出してみると、気が遠くなった。
途中省略
「いったい、これはどうなさるおつもりなのです」
と弥太郎が後藤を詰問すると、後藤は「わしゃ、知らん」と言い、やがてニヤリと笑って、
「おンしを抜擢した理由がわかったか」
といった。要するに抜擢の真相は、後藤の汚職的な浪費を藩に知られぬよう弥太郎に始末させるためであった。
(まったく後藤は無茶だ)
と弥太郎は思った。
途中省略
弥太郎の感じているばかばかしさは、後藤象二郎の浪費の尻ぬぐいだけではない。
下僚が、なかなか動かないのだ。
「地下浪人あがりめが」
という態度が、下僚にある。下僚といっても身分は上士なのである。
途中省略
ほどなく弥太郎は後藤の奔走で馬廻格という後藤とおなじ家格に直され、このため下僚の統率がうまくゆくようになった。弥太郎の本格的活躍はこれ以後になる。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
岩崎弥太郎 2019/02/19
これぞ、門閥主義。
つい先日まで、「地下浪人あがりめが」と見下していたにも関わらず、家格を直された途端に統率が上手く行く様になった。能力の有無や過去の事など一切顧みる事なく、ただひたすらに、身分(背景の権威)のみで動いていた社会。
何とも、呆れるよりもその徹底ぶりに、「お見事」と言わざるをえない。(弥太郎には能力あるんですけどもね)
もっとも、その下僚共でさえ、門閥という権威によって俸禄にありつけている訳であり、今更それを否定すると、単なる自己否定になってしまうだけだから、そんな事なら、みんな仲良く、みんな楽しく門閥主義。
ここまで来ると、武士の忠義というよりも保身を疑わしくなって来るけれども、徳川幕府の統治の思想の一端を窺う事ができる。と同時に、武士を作ったのは徳川幕府の功、という事も理解できる。この辺りは、勿論私見です。
諸藩、家臣と言えども、武力を持った領主の集団を統べるには、力だけで抑えつけるとやがて歪みが出て来るのも人の性。何時、反乱が起きるとも限らない。現実問題、隠密、密告、あの手この手を駆使していたりもするくらいだから。
高い倫理観を植え付ける事によって、秩序を保てるならそれに越した事はない。そこは勤勉で生真面目な日本人の事、想定よりも行き過ぎてしまったのかもしれないが。
性善説とか性悪説というのも、本来、武士の様な高い倫理観を持った種類の人間の説にしか、説得力を感じない。
高い倫理観によって縛り付け、秩序を維持していたから、その見返りとして身分の保証とし、そこから性善説へと繋がって行くのならその論理も理解できる。
さて、現代において性善説は、個人が対象であればその議論の余地はあるとしても、公人に対しては、そぐわないと思わざるをえない。ただ単に、過去の都合の良い事だけを引きずっている様な気がしてならない。ましてや、公務員無謬説に至れば、論理の飛躍も甚だしい。
現代は、法によって治むる社会。公務員の身分は法によって保障されている。その上に、無謬説のような古びたある種の特権を与える必要など無い。もっとも公務員側も、過剰に倫理観を押し付けられるのは、職務遂行上、窮屈さを感じないのかと思ってしまう。
人の世は、法だけで上手く治まる程単純なものでは無いから、平行して倫理道徳も重要でしょう。昔は、倫理道徳に重きが置かれ、現代は、法に重きが移行してきた、と言ってもいいと思う。
権力を持つ者が、昔に比べて軽くなって来た程度の倫理観を持つのは義務であるし、また要求されるのは、性善説などでも何でも無い、ただ当然の事だと思う。
もう時代は変わったんです。統治に性善説なる曖昧なものは、排除して行くべきだと思いますが、如何でしょうか。
途中から話がそれた様な気がしないでも無いが、豆腐屋の鳴き声の合唱は、もう聞き飽きたのも言うまでもない(まだ、大勢居るのかな)
☆度量海闊 2018/09/28
もともと竜馬は諸藩の有志のあいだに「度量、海のごとし」という評判があり、人の好ききらいをいっさい表に出さなかった。そういう点があったればこそ、人もあつまってきたし、竜馬の下にいるとどの男も気楽に呼吸することができ、のびのびとそれぞれの才能を発揮することができた。一例がある。
耕蔵という越前脱藩浪士がいる。
姓は、小谷である。越前松平家といえば徳川家では御三家につぐ家格だ。自然、その藩の出身、というせいもあって、極端な佐幕主義者だった。
隊員は、全員が討幕論者である。
「耕蔵を斬る」
と、みな騒いだことがある。竜馬はその連中をおさえ、
「耕蔵の身に一指でもふれるな。四、五十人も人数があつまれば、一人ぐらいは異論家はいる。いるのが当然でもある。その一人ぐらいの異論を同化できぬおのれらを恥じろ」
と、この男はいった。
度量海闊といっていい。
さらには、この男がつくった隊の要則そのものが、志の自由をゆるしていた。
竜馬の書いた原文どおりに紹介すると、
「国を開くの道は、戦ひする者は戦ひ、修行(航海の)する者は修行し、商法は商法で銘々かへりみずやらねばならず」
とある。海援隊の性格は多角的で、討幕結社、私設海軍、航海学校、海運業務、内外貿易という五つの顔をもっている。
「おのおの、その志のままに生きよ」
というのが、竜馬の考えであった。だから商務が好きな者で戦いがきらいなものは強いて戦わなくてもいい、というのである。
その五つの顔を、竜馬が一つにまとめて統率している。言いかえると、竜馬にもこの五つの顔があったといっていい。
だから性格的にも寛やかな男であるうえに社会的存在としても、五面の顔をもっているから、たいていの人間は包容することができた。
ところが、弥太郎にだけは、妙ににがい顔をしつづけた。
「弥太郎」
と、とって投げるように、長崎留守居役というこの藩の高官をよびすてた。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
度量海闊 2019/02/20
海援隊がいくら自由と言えども、脱藩浪士をもって資格とする。という明確な規定があって、誰でも入れるというものでも無いんですな。
隊の中には階級も無く、船長なども航海の都度選任するという徹底した平等主義で、竜馬の理念がよく表れている。
ただ、あまりにも理想的に過ぎるんじゃないかなあ、と俗人な筆者としてはその後が気になってしまう。人は変わるものだし。
頑固な階級制度を生きて来た人間であれば、平等に憧れるのは仕方無いとしても、維新後、ある程度社会が落ち着いて来た時に、どの様な運命を辿ったのか。はたまた、例外的に存続出来たのか興味は尽きないですが、隊長が天に召されてしまったので、結果は分からず仕舞いです。
☆狙われ者 2018/09/30
「坂本様を、どうやら狙っているらしい浪人衆がいます」
と教えにきてくれた。
途中省略
「もともと命をねらわれるのが、いわばおれの仕事だ」
と妙なことをいって、竜馬はいつも一人で市中を歩いていた。
そうしたある日、海援隊本部に、ひとりの立派な装束の武士が訪ねてきた。
長州の桂小五郎である。
「ようきた」
と、竜馬は土間へ降りるなり、桂をひっぱり出して町を歩きだした。丸山の花月へゆこうというのである。
肩をならべて歩きながら、この男も、文久三年八月の禁門ノ政変以来、幕府が鵜の目鷹の目になって捜索している男だ、と思うと、なにやらおかしくてならない。この滑稽感は、竜馬自身にもうまく説明できない。つまり命のあぶないやつが仲よく肩をならべて夕暮の町を歩いて酒を飲みにゆく、というのが、一種の俳画のような味におのずから思えてきたのであろう。
途中省略
花月の坂下で竜馬にたたきつけられた紀州藩の岡本覚十郎は、
(あの男、刀を抜いたか)
という記憶さえさだかでない。とにかく岡本覚十郎の記憶は、坂下の柳の蔭に自分がひそんでいたところまではたしかであった。
坂をおりてきた人影は、一人であった。足取りは蹣跚としているが、さほどに酒が入っている様子でもない。
(あの男だ)
と岡本がおもったとき、体中の力が上半身にのぼった。重心をうしない、妙に体が落ちつかなかった。同時に、錯乱が訪れた。
というより、厳密には心神喪失の状態であったろう。このあと、記憶がない。
岡本は抜刀するや突撃した、のであろう。その瞬間、体が宙に浮き、石畳にたたきつけられていた。
(殺される)
と、思い、身を跳ね上げようとしたが、血が頭にのぼっているばかりで、体のどこにも芯がない。指一本、動かなかった。
そのくせ、相手が、岡本の体をおさえこんでいた様子もないのである。
ただ、
「藩も名も訊かぬ」
といった相手の声が、ひどく物柔らかで、岡本の心に残った。
相手が去ってから、岡本はようやく立ちあがった。剣がなかった。重役の須山藤左衛門から借りた剣であった。それに気づいたときはじめて岡本は狼狽するだけの正気にもどった。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
狙われ者 2019/02/21
これは、全くの個人的な興味でして。
剣の極意は丹田(へそ下三寸)にあり。と申すそうで。
これを、てっきり技術的なものとして考えていたんですが、もしや、それだけじゃ無さそうだ、と思った次第。
表現が陳腐なれど「心気を丹田に鎮める」、とでも申しますか、精神的なものも含まれていたのか。となれば、日頃からの心の置き様が重要である、という事であろうか。文字通り真剣勝負の世界なんだから。
結論は、さっぱり分かりません(剣の道には縁遠いので悪しからず)
因みに、「もともと命をねらわれるのが、いわばおれの仕事だ」、などと妙なこと(白昼堂々の男だから)を言っていたのは、当時は新選組なども、必ず敵を上回る人数で囲むのを定法としていたなど、周りもかなり荒っぽい中での話である事は、気に留めていた方がよろしいかと思います。この時は、岡本一人だった様ですけど。
☆宮廷工作 2018/10/02
「よく来てくれた」
と、岩倉はその面を崩した。
岩倉は中岡の名前とその業績についてくわしく知っていた。この岩倉の退隠所を、水戸脱藩の香川敬三や土佐の大橋慎三らがひそかに訪問していて、天下の情勢や有為の士の動静などを語っていたからであろう。
「きょうは、徹宵(てっしょう)、語りあいたい」
途中省略
そのあと、時務のはなしになった。岩倉のいうところは、明確な政権奪取論であり徳川氏討滅論であった。
「安政以前は、私も佐幕論であった。幕府が日本の政権武権をもっている以上、外夷からこの国をまもるには幕府をたすけるほかないとおもったからである。が、いまは情勢がかわっている。すでに幕府はその力をうしない、むしろその存在が、日本の存立のために邪魔ものになろうとしている。切って捨てなければこの国土はほろびるしかない」
という意味のことを、岩倉はくわしく例をひいて語った。
「犬の遠吠えのようなものだが」
と、岩倉はいった。
「この岩倉村蟄居の数年間、いささかの所懐を文章にし、何度となく京の宮廷の有志に送ってはいた」
所懐というのは、時局収拾策である。岩倉はその二、三を中岡に披露した。そのいずれもが、きらきらとかがやくような創見にみちたもので、論旨も明快であった。
(世にこれほどの人物がいたのか)
と、中岡はあらためて岩倉の入道面を見なおさざるをえない。
その論文の論旨もさることながら、中岡がもっとも感心したのは、岩倉がこの蟄居にもその頭脳と神経の活動をやすめていないということであった。その一事だけで、岩倉の常人でないことを中岡はおもった。
(常人ならば、厭世韜晦し、いたずらに詠嘆的になるか、悟りすましたがごとき心境になってなにもしなくなるだろう。要するにじっとしていられない性分らしい)
その居ても立っても居られぬ行動的性格こそ、いま風雲が要求しているところだった。
「毎日、左様なことばかりお考えあそばされているのでございますか」
「ときには気持が萎えることがある。陰々として滅入ってくるときの気持ちのやるせなさは、こういう蟄居の暮らしをした者でなければわからぬ。十日に一度はそれが襲ってきて、ついには死のうとおもうことさえある」
「そのときはどのようにして御自分をお救いになります」
「工夫はない。しかし」
と、岩倉は背後に手をまわして、積みあげた書物の上から一冊のとじ本をとりだした。
「都気能雄久志」(ツゲノヲグシ)
と万葉仮名で表題がかかれている。岩倉自身が自分のために編集した詩歌の抜きがきであった。詩歌はすべて他人の作品である。
その作者たちは、すべて故人であった。そのことごとくが、国事に斃れた勤王の志士である。
「それをよんでは、わが磊塊を慰撫している」
と、岩倉はいった。磊塊というのは石のかたまりのことである。男子の腹中にはみな磊塊がある、と古代中国人はいった。男子が酒をのむのはそれを焼くがためだという。意味は、鬱勃たる心情といってもよいであろう。
中岡がおどろいたことに、その物故志士の名は、岩倉とは反対の立場にあったいわゆる過激志士の名ばかりである。寺田屋騒動で闘死した薩人有馬新七、天誅組で死んだ藤本鉄石、蛤御門ノ変の真木和泉、久坂玄瑞などざっと目を通しただけで三十余人の名がある。
(この卿の至誠まぎれもなし)
と中岡は見、談なかばで本題に入り、大宰府に蟄居中の三条実美と提携してくれるよう頼み、三条の手紙をさしだした。
一読後、岩倉は涙をうかべて、
「すでに薩長連合の密事があり、いま三条卿と予が提携する。もはや天下の事はなったと同然だ」
といった。
途中省略
岩倉も、話しながら中岡の人物を観察しつづけている。
(剛直の士らしい)
と、最初、中岡の風貌からそのように理解していたが、次第にそれだけでないことがわかってきた。中岡のもっている俊敏な時勢感覚と果断な性格、それに岩倉の話に対する理解の早さ、即応して別な議論を展開するみごとさにすっかり岩倉は惚れこんでしまい、
(これは倶に事をなすに足る)
とおもった。
そう思うと、岩倉はたれにも洩らしたことのない秘中の秘事をあかした。
途中省略
ここに、孝明帝の崩御という重大事態がおこった。岩倉はその報が入ったとき大いに悲嘆したが、同時に、自分の政治的復活の日がきた、とおもった。
途中省略
朝廷の最高官は、関白である。天皇が成人であられるときは関白だけで十分であるが、幼帝の場合は、身辺で御手をとって帝業をたすける親権者のような役目が要る、というのが岩倉の意見である。
(その親権者役の公卿さえ、わが陣営にひき入れれば朝廷のことは思うがままになる)
と岩倉は思ったであろう。なぜならば、その親権者役の人物が、幼帝の御手をとって御璽さえおさせれば勅書はたちどころにできあがるからである。たとえば「討幕」の勅書も一瞬にしてできあがるであろう。
岩倉は、むろんそういう底意はべつとして篤実な中御門経之に対しては、まっ正面の論理立てで、その「大傅」の必要を説き、
「それには、閉門中の前大納言中山忠能(ただやす)卿が最適である。このひとをおいてない」
といった。中山忠能は、幼帝(明治帝)の外祖父にあたる。忠能のむすめ慶子が帝を生み奉り、帝がまだ祐宮とよばれていた幼児のころから最近まで中山邸で育たれた。
適任であろう。岩倉は中山忠能とはつきあいがなかったが、忠能に恩を売っておけば自分の復職も可能であるとみた。
事は岩倉のおもうとおりにはこび、忠能が幼帝のおそばで仕えることになった。
革命というのは、ある意味ではもっとも巨大な陰謀といっていい。それをやる側にとっては、神のごとき陰謀の才が必要だった。
(岩倉具視卿こそ)
と中岡がおもったその見込み以上の謀才をこの入道頭の公卿はもっていた。全身、胆略でできあがっているという感じである。
日本の場合、遠いむかしの大化改新以来政治・社会の大変革はすべて、天皇の勅命を得ることによってその新しい勢力の安定をみた。同時にその敵を「朝敵」として討伐するという例をくりかえしてきた。
このため、回天を企てる側は、回天に必要な情勢と軍事力をつくりあげてゆく一方、宮廷をおさえねばならない。勅命を得て敵を朝敵として討つためである。
途中省略
が、この幕末の情勢下では、討幕派が宮廷の承諾を得ることは不可能にちかかった。
なぜならば、日本史上、朝廷はつねに武力熾(さか)んなほうに勅命をあたえてきた。源平争乱のころ、頼朝の勢力が京で過小評価されていたころ平家が官軍であったし、平家の軍事力が弱まると源氏が官軍になった。
いまの場合はちがう。
討幕派の藩は、三百諸侯のなかでわずかに薩長二藩だけである。
徳川幕府は政治能力がおとろえたとはいえ、軍事力はなお日本の国際的な公認政府として堂々たる威容をもっていた。たとえ三百諸侯の応援を借りなくても、幕府の領地は四百万石ともいわれているところからみれば、薩長両藩の実力の比ではない。
この実力比からみて、朝廷に佐幕派の公卿が圧倒的に多いのは当然であった。かれらはつねに強いほうにつく。
その点に、困難がある。
――公卿たちが、微弱な倒幕派の側に加担するかどうか。
ということであった。もっともどうあっても加担せしめなければ、安政以来、歴史上に屍を横たえてきた志士たちの霊もうかばれず、維新回天の夢も実現しない。
「それには策さ」
と、岩倉は目をぎょろつかせてうなずき、中岡を安堵させた。
「宮廷のことはわし一人にまかせて貰おう。それにはわし自身が宮廷に戻らねばどうも不自由でかなわない」
実は、そのほうの策も着々とすすんでいるという。岩倉は友人中御門経之を活躍させて先帝の勅勘をうけて閉門中の多くの公卿を朝に復さしめた。彼等は黒幕の岩倉に恩を感じ、近く岩倉自身も宥免になる希望がきざしはじめているという。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
宮廷工作 2019/03/05
怪物、と呼ぶには少々礼を失している感もあるが、公卿というまるで霞み掛かった遠き別世界の住人にしては、人臭い明瞭な輪郭を見せてくれる。有り余る才能がそうさせたのか、公卿という枠には到底納まりきれない人物。
やはり公卿にしては怪物か。何も、得体の知れないものを指して表現している訳では無く、褒め言葉としてです。
「常人ならば、厭世韜晦し、いたずらに詠嘆的になるか、悟りすましたがごとき心境になってなにもしなくなるだろう」
蟄居暮らしなどは、常人がそうそう経験できるものでも無いけれど、隠居暮らし(寿命は伸びてますから)なら誰にでも可能性はあるし、また、己の不遇を呪う時もあったりする。そんな時に、どうすれば厭世韜晦せずに自分を救い上げる事が出来るのだろうか。
有り余る才能でもあれば、じっとしていられないのも、性分というより才能がそうさせてしまうでしょうから、よって心配するまでもなし。とはいえ、我が身を振り返ってみても、きらきらと輝く才能なんか見当たりませんけど、これはどうしましょうかね。
岩倉卿の「都気能雄久志」とは、その志の部分で比ぶる迄もないですが、筆者にとって「竜馬がゆく」は、二十年以上前に読んで以来の二度目ですが、その感想は全然違っているんですね(スコシハセイチョウシタカナ)
何年か後にまた読み返した時に、あの頃はまだまだ分かっちょらんかったな、と感じるか、それとも大して成長せずなのか、そんな自分に対する興味もあってこんな頁を作って書き記しているんですが、要するに自分の歴史を刻んでいる様なものです。
これぐらいで厭世韜晦せずに済むのかは、そんな事は分かりかねますが、兎に角、あれやこれやとジタバタしている訳です。
☆中岡慎太郎 2018/10/06
「中岡にはおれのできぬところがある」
と竜馬はつねづねいっていた。こまごまとした具体的な政治運動である。たとえば竜馬は土佐藩を見限り、土佐藩の上士とは正気でつきあおうともしなかったが、中岡はそうではなかった。むしろかれは積極的に土佐藩に働きかけ、一介の庄屋出身の身でありながら老公の容堂にも拝謁していたし、また老公が寵愛している若手の秀才官僚に接近してかれらの思想を転換させ、かれらの情熱にあたらしい方向をあたえた。こういう点、竜馬のできる仕事ではなく、中岡慎太郎こそ、うまれついての実務的な革命家という、稀有に属する型であろう。
容堂側近の若い秀才官僚たちは、ほとんど中岡に感化され、中岡を、事実上の師のごとくあつかいはじめていた。もっとも身分の観念のうるさい土佐藩だけに、かれらの上士はあいかわらず、
「中岡」
と呼びすてにしていたが、かれらの態度は中岡を畏敬し、兄事しているがごとくであった。この連中の中心的人物は、乾(板垣)退助、小笠原唯八、福岡藤次(考弟)、谷守部(干城)、寺村左膳の勤王五人衆である。中岡はかれらを通じて土佐藩二十四万石を動かそうとしていた。
動かす、というのは、中岡の最終目的はただ一つである。あくまでも流血革命方式を堅持してゆずらぬかれは、土佐藩を薩長両藩とともに討幕の戦線に立たしめるためであった。
岩倉村を辞した中岡のいまの段階での最大の懸念は、
「四賢候会議」
であった。この時期、すでに薩摩藩の島津久光が、自慢の洋式歩兵六個大隊、洋式砲兵一隊をひきい、砲車をとどろかせて京都に入っているのである。
途中省略
容堂がまだきていない。
(あいかわらず、手こずらせるお人だ)
途中省略
容堂は京の志士たちから、
「酔えば勤王、醒むれば佐幕」
などと蔭口をたたかれていた。自然、この四賢候会議でもどういう言動に出るか予測ができない。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
中岡慎太郎 2019/03/07
海援隊の竜馬。
陸援隊の中岡。
両者その気質は全く違うが、互いに気が合うし、其々に人望もある。
中岡の活動は、一見地味で裏街道を進んでいる様に感じてしまうが、それは、竜馬と比較するとそう感じてしまうだけの事で、本当は、中岡が歩んだ道を表街道と言い表しても良いと思える。
竜馬と中岡、別々の道を歩んでいる様で、実は見えないところで絡み合っていて、両輪が揃って初めて事が上手く進んだのかもしれませんね。
☆板垣退助 2018/10/07
「乾退助が?」
中岡は、おどろいた。じつは佐幕派の乾退助を斬ってやるといって、京都時代、中岡は退助をつけねらったことさえあるのだ。
「あの男が、わが陣営に加わってくれれば千軍の味方をえたようなものだ」
と、中岡は同志にもいった。乾は、人間的には侠気に満ちた男で、私欲がなく、みずから正義と信じた以上、火のなかへでもとびこむという性格のもちぬしである。その点、敵ながらも中岡は高く評価していた。
途中省略
「談ずる前に」
と、退助はいった。
「解決しておかねばならぬことがある。でなければ胸襟をひらくわけにはいかない」
「胸襟を」
「そう。今年のはじめのことだ。わしが京にあったとき、ぬしゃ、わしを斬ろうと企てていたな」
「いや、左様なことは」
と中岡は顔色を変えずにいうと、退助は大喝一声して、
「中岡慎太郎は男児ではないか」
といった。中岡は退助の気魄にうたれ、参った、そのとおりである、といった。退助はうなずき、されば天下の事を談じようとはじめて微笑した。
乾退助は、その後、一介の庄屋郷士の出身である中岡に兄事するようになった。
退助は、みるみる過激になった。かれの同僚である後藤、小笠原、福岡らの秀才官僚たちも勤王思想にかぶれたが、退助はより飛躍していた。
途中省略
もともとずぬけた情熱家であり学才のもちぬしである容堂は、これら若手の上士を始終手もとにひきつけ、
「そちらを英雄たらしめてやる」
といってみずからかれらの教師をもって任じ、かれらに容堂流の英雄教育をほどこしてきた。封建時代の殿様としてはめずらしい態度といっていい。
かれらは、若い。
自然、英雄的気概をもつようになった。この時勢、英雄的気概をもつというのは回天への情熱とむすびつく。
途中省略
「大殿様、真にわが日本をお憂えになるとあれば、すみやかに兵をあげて幕府をお討ちあそばしませ。百のご議論より、いま必要なのは一発の銃声でございまする」
とぬけぬけと進言したことがある。
容堂は激怒した。激怒してもふつうの殿様のようではなく、退助の胸ぐらをつかむようないきおいで議論をする。議論をすれば容堂のほうが論理的でしかもその論理に学識がちりばめられているため、かならず退助が言い負かされた。
「どうじゃ退助、心をあらためるか」
と容堂がきめつけると、退助は昂然と頭をあげ、
「匹夫もその志を奪うべからず」
と、屈しなかった。下賤のくだらぬ男でもいったん胸に蔵した志というものは力ずくでは奪えないものだ、という意味である。
「退助、そちは匹夫か、郷士づれの匹夫のまねをするか。そちは上士であるぞ」
と容堂はつねに叱った。
何度も、罰しもした。が、容堂は退助の気骨稜々たる性格を愛していたため、過重な罰はあたえず、ついに国許や京に置けばいよいよ思想が激化することをおそれ、藩命によって江戸へやった。
途中省略
その退助を、中岡は江戸からよぶ。
(退助はまだ一介の土佐の士にすぎぬ。これを機会にひろく天下の志士に紹介し、諸藩の間の名士たらしめねばならぬ)
と中岡は考えている。
途中省略
薩摩の西郷などは、まだ見ぬ乾退助によほど期待をかけたようだった。なぜならば西郷の懸念は土佐藩の風むきである。
(薩長土とそろわなければ、天下の事は成らぬ)
とみていた。土佐二十四万石は兵馬つよくしかもその軍制は急速に洋式化しつつある。この雄藩を革命陣営に加えるかどうかで、歴史の動向はずいぶんとかわるであろう。
中岡もその点、土佐人だけに切実な思いがある。
(われわれ土佐郷士は、薩長両藩の士よりも多く風雲のなかで斃れた。しかし藩そのものは佐幕で因循姑息の状態にある。いまや孤剣の浪士ではなんの役にも立たず藩そのものが参加せねばならぬときにきている)
この藩の動きを変えさせる多少ともの希望は乾退助にあった。
「乾殿はそれほどの人物か」
と、西郷でさえ、この時期もはやすがる思いで乾退助という青年の登場を待っていた。
「左様、精悍という言葉はかれのためにあるような気さえする。うまれながらの将才、というべき器量の人物だ」
途中省略
乾退助は、幸福すぎるほどの登場のしかたをしたというべきであったろう。かれは、その能力からいえばたしかに卓抜した軍才はあった。維新後、陸海軍は薩長がおさえたため維新戦争当時の最大の名将といわれたこの男も、政治家にならざるをえなかった。一個の侠雄ともいうべき退助には政治家の才能はない。結局野にくだり、竜馬の思想系譜をひいて自由民権運動の総帥になるが、それも例の「板垣死すとも自由は死せず」という名文句を後世に記憶させた程度で、さほどの仕事もせずにおわった。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
板垣退助 2019/03/09
匹夫もその矜りを奪うべからず。
人の矜りは、決して他人が奪う事などできないもので、もし、失っていたならそれは自分で捨ててしまっただけだ。と、思う。
一度捨ててしまったものを、後からあれは無かった事に、と企んでもそんなに簡単には取り戻せないし、自ら捨ててしまったものになど天も哀れみをかけてくれる事は無いでしょう。
矜りは、自分だけの自分の根源だから大事にしたいですが、矜りにも色々とある様です。
「そちらを英雄たらしめてやる」
英雄教育。素晴らしい、心がじんじんと痺れてくる。のかもしれません。
ただ、ひねくれ者の筆者には、こんなところが、お殿様というかお石様というべきか、得体のしれない不快感を覚える。
思想教育などは、古今東西、ありとあらゆるところで行われていた、人という無智な生き物の持って生まれた業なのか、というくらいのものかと思えるが、果たして、それで意のままに教育できた例などあるものなのか。
一時的(長い歴史からみて)なものであれば、熱狂することもあるかもしれないが、熱を帯びているもの程、案外冷めてしまうのも人の性。神様だって、熱に浮かれた状態を続けていられる様には、造っていないと思いますがね。
幕府がやっきになって学問を勧めた底意は、誰が見たってお上(幕府)を敬え、というのが透けて見える。
ところが、ある時ふと気づかれてしまう。真に敬うべきは、幕府ではなく朝廷ではないのか、京の御所様がお可哀そうでござる、と変遷しても何ら不自然な事では無い。
結局、幕府はせっせせっせと自己否定の種を蒔いて育てていただけに過ぎない、と言わざるをえない。無智な思想教育の末路かと思えばこれ程痛快な事も無いが。
そもそも、教育しようとする側にどろどろの下心があれば、これ以上不自然な事もない。人々の心は、最後には必ず流れ行くところに流れ着いて行くものであって、人智の及ぶところではないでしょう。悟りを開いたが如きうそぶいているとすれば、天をも恐れずに、自然に楯突いているだけだ。
とはいえ、時には浮かれてしまうことだってありますよ。そんな時に自分を引き戻せるのは、矜りではないのか、と思うのです。
矜りというものは、他人に見せつけたり誇ったりするものでは無いのであって、つまらぬ自慢をしたがるのは、それは面目、意地と取り違えているからだと思わざるをえない。だから、英雄たらしめてやる。などという発想にもつながるんでしょう。
容堂流の英雄教育は成功と言えるのか。
英雄なる人物は、自分で勝手になるもの。というか、勝手になって結果を残したら英雄と呼ばれるだけ。みんな独創の道を歩んだ人物ばかりだ。もっとも、これが英雄道だなどという便利で小洒落たものでもあるなら食指が動かぬでもないが。
竜馬が歩んだ道でさえ、現代にそのまま通ずるのかと問うてみれば、それには疑問符がついてしまうし、竜馬も、時勢を見極める勘が大事だと言ってる程の事を、日和見なお殿様にそんな勘を伝授できるとも思えないんですがね。
結局、前例はあくまでも例であって、とどのつまり「時勢に合った発想力と勘」が大きく成果を分けるんでしょう。
板垣退助も魅力ある人物なんですが、相手が相手だけに少々影の薄い扱いになってしまいました。
☆追いつめられているのは日和見主義者 2018/10/10
「老公(容堂)からお召し状がとどいた」
と言うと、頭の働きの機敏な竜馬は、すぐ例の四賢候会議だと察し、
「そうだろう」
といった。
途中省略
「頼む。な、竜馬。おれと一緒に京へのぼってくれ」
後藤にすれば必死である。京で狂いはじめている風雲をさばく智略は、大策士をもってみずから任じている後藤にさえない。
途中省略
元来、土佐藩の大殿様の山内容堂は思想的には幕府否定の勤王論者であった。が、土佐藩主になってからのかれは、
「わが家は徳川家に大恩がある」
という情義的立場から、むしろ徳川家の親藩や譜代の大名よりも強烈に幕府擁護の立場をとってきた。思想は勤王、行動は佐幕――といった立場である。
矛盾している。
相反する二つのものは容堂一個の腹中におさめて容堂は風雲のなかを生きてきた。自然、天下の勤王志士から期待され、逆にまた幕府から無類の用心棒として頼りにされてきた。
「むりだったのよ」
途中省略
「後藤よ、人生百般、これ以上の難問題はないと心得よ」
竜馬はだんだんいい気持になってきた。思えば土佐藩のこの不可思議な両刃の刃によって武市半平太をはじめどれだけの友人知己が死んできたか。
「今にして悟ったか」
と叫んでやりたくなった。目の前で、後藤ほどの倨傲な男が、奉行所にひきだされた小悪人のようにうなだれているのである。
そのあと、後藤は、京都藩邸からとどいているさまざまの情報を伝えた。
竜馬はいちいちうなずき、
「よくわかった。とにかく、一晩考えてみよう。もし行くと決めた場合、おれは明朝四時に夕顔丸の船上にいるだろう」
途中省略
(容堂公はやはり、死ぬしかあるまい)
途中省略
(あの大殿様の勤王・佐幕の両刃の刃のために何人、土州の傑士が死んできたか)
(死ね、死ね、か)
竜馬は、あごをなでて思案している。
(容堂公はわるくいえばこの風雲のなかで首鼠両端をじしてきた。その勘定書を、いまこそ支払わねばならぬ)
京で、薩長の軍師として活躍している中岡慎太郎が、容堂にその勘定をはらわせてしまうだろう。
(中岡ならやる。中岡にはそれだけの凄腕がある)
途中省略
革命には根のいい政治工作が要る。しかしついにはそれだけでできるものではない。最後には戦争が必要である。砲煙のなかで歴史を回転させるべきだ――というのが、中岡のまえまえからの持説であった。いまや、かれのいう最後のぎりぎりの段階まで、かれは時勢をもってきているのである。中岡慎太郎のみごとな成功といっていい。
この情勢に追いつめられているのは、当面の幕府よりむしろ容堂のような日和見主義者といってよかった。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
追いつめられているのは日和見主義者 2019/03/11
「思想は勤王、行動は佐幕」
両陣営から期待されて、さぞかし良い気持でいられたんだろうな、最初は。お殿様的八方美人とでも言うべきか。
容堂としては、いくら幕府が傾きかけたといえども、そのまま倒れてしまいそうになるとは思いもよらぬ上での行動だったんだろうが、ふと気づけばまさかの情勢に。さぁ、どっちを選ぶ、さあ、どっちに付く。
ところで、「酔えば勤王、醒むれば佐幕」などと蔭口をたたかれていた事を知らなかったのかな。
いやぁ、でもこれは他人事ではないですね。容堂の立場であってもそうでなくても、日和っちゃいそうですけどね。
こういうところを、一番学ぶべきなのかもしれません。人生の大半は、日和見で過ぎ去って行っている様に思える。
☆竜馬が行く 2018/10/11
一案はある。
その案は、後藤が「頼む」といってきたとき、とっさにひらめいた案だが、はたして実現できるかどうか、という点で、竜馬はとつこうつと考えつづけてきている。
「大政奉還」
という手だった。
途中省略
「坂本さんが、時勢の孤児になる、と申したこと。孤児は言いすぎだった」
「言いすぎどころか」
竜馬は、夜風のなかでいった。
「男子の本懐だろう」
時流の孤児になることは、である。時流はいま、薩長の側に奔りはじめている。それに乗って大事をなすのも快かもしれないが、その流れをすて、風雲のなかに孤立して正義を唱えることのほうが、よほどの勇気が要る。
(妙なひとだ)
若い作太郎はおもった。
いままでの竜馬は、徹頭徹尾、薩長の味方だった。味方どころか、犬猿の仲の薩長を連合して巨大な討幕勢力をつくりあげたのは、竜馬である。薩長同盟のいわば頭目ではないか。
それが、いざ討幕という段階になってにわかにその勢力からみずから身をひこうとしている。別の場所に立とうとしている。
途中省略
「回天はついには軍事力によらずば成りがたいだろう。その肚はある。しかし万に一つ、それを回避できるとすれば、その策をまず施さねばならぬ」
「慶喜将軍が、素直に大政を奉還するとは思われませんが」
「慶喜が愚なら、固執する。となれば、慶喜を朝敵とし、おれが一番に戦鼓をたたいて慶喜の討伐軍をおこすつもりだ」
途中省略
「訊いてもいいですか」
「いいとも」
「では、言います。坂本さんは土佐藩を見かぎられたお人だ。そこにこそ」
竜馬の魅力がある、と作太郎は言おうとしていた。作太郎ら土佐藩士の母藩に対する恨みはあくまで濃く、だからこそ「土佐藩を相手にせず」という立場を終始とってきた竜馬に魅力を覚え、こうしてかれのもとにあつまり、かれを頭目として働いているのである。
「しかし、いまの戦争回避策は、いつに土佐藩を救済するがために考案されたのではありますまいか」
「結果としては、そうなるだろう。この策が成功すれば土佐藩はたすかり、一躍、薩長をおしのけて風雲の主座を占めることになる」
「な、なんのためそこまでの親切を」
「親切ではないさ」
竜馬はいった。
「おれは薩長人の番頭ではない。同時に土佐藩の走狗でもない。おれは、この六十余州のなかでただ一人の日本人だと思っている。おれの立場はそれだけだ」
途中省略
薩人は早くから英国人に近づき、長州人は竜馬の仲介で英国人と密着した。このため薩長は、英国を背後勢力とするようになった。
(はじめはおれの持論としてそうするよう奨め励ました。しかしいまはあまりにも密着しすぎている)
内乱がおこればよろこぶのは英国をはじめとする列強である、と竜馬は見、それをおそれるようになった。
幕府は、フランスと提携している。軍事的にも経済的にもその援助をうけている。ナポレオン三世はヨーロッパ政界では名だたる業師で、その幕府援助の本心が日本を植民地化するところにあることは火をみるよりもあきらかだ。
だからこそ、
(幕府を早々につぶすべし)
と竜馬は鼓をたたいて主張してきた。
が、薩長はどうやら英国と深間に入りすぎているようである。このさき薩長が幕府をたおしたあかつきは、英国はどう出るであろう。
「とにかく、薩長を戦争で勝たせてしまえば英国にのみ利が行き、まずいことになる。戦争によらずして一挙に回天の業を遂げれば、英仏とも呆然たらざるをえない。日本人の手で日本人による独自の革命がとげられるのだ。その革命には徳川慶喜でさえ参加させてやる。かれを革命の功臣にさせてやる。されば、英仏ともあっけにとられて、手を出すすきがあるまい」
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
竜馬が行く 2019/03/20
「日本人の手で日本人による独自の革命」
目的(討幕)のためであれば手段を選ばず。
竜馬にもそんな一面を見る事ができるが、ただ一つ、日本人による独自の革命という目的のためであれば、自分自身の過去の行動でさえ否定する事をも辞さない。いかなる状況であっても、自分の最後の一線だけは越えない竜馬の信念の強さが、「ただ一人の日本人」という自負を証明している。男子の本懐ってやつも生半可なものではないな。
真にブレない人間とは、自分の意地や過去の言動に捉われてそれを守る事に汲々としているのか、それとも、自分の信念、目的を守るためであれば、過去の自分の言動でさえ覆す事を厭わないか、筆者は後者だと思っているんですが、勿論、過去の言動を翻すにしても相応の理由が必要なのは言うまでもありませぬ。
安直に他者(列強)の力を借りれば、後にその代償が高くつくのは誰でも想像がつくし分かっている筈。そうはいっても、人間とは弱きもの、なんですな。
☆船中八策 2018/10/12
その部屋へ、ひと足先に乗船していた海援隊文官の長岡謙吉、陸奥陽之助のふたりが入ってきた。
「いまから話すことを、よう聞いてくれ」
竜馬は寝台の上にあぐらをかき、例の大政奉還策をくわしく話しはじめた。
途中省略
「ものには時機がある。この案を数ヵ月前に投ずれば世の嘲笑を買うだけだろうし、また数ヵ月後に提げて出ればもはやそこは砲煙のなかでなにもかも後の祭りになる。いまだけが、この案の光るときだ」
「左様、奇策だけに腐りやすい。ところでこの案は坂本さんの独創ですか」
「ちがうなあ」
竜馬は笑いだした。
三年も前に、じつは日本における最大の批評家というべき二人の人物からきいた案である。なにしろ三年も前の前将軍家茂のころだから、当の竜馬でさえ、
(まさか)
と、実現不可能の感じがした。将軍が自発的に政権を返上するなどは考えられもせぬことではないか。
批評は頭脳のしごとである。その施すべき時機をみつけるのが、実行者のかんというべきであろう。竜馬は三年後のいまになって、記憶のひきだしからあのとききいた話をとりだしてきたのである。
「どなたの創見です」
「かの字とおの字さ」
勝海舟と大久保一翁であった。どちらも幕臣であるという点がおもしろい。
勝、大久保という天才的な頭脳は、文久年間から、
(徳川幕府も長くはない)
と見とおしていた。
途中省略
幕府はほろびても、将軍の命をたすけ徳川家の安全をはかる法は、ひとつしかない。徳川家がもっている政権をなげだし、みずからの手で幕府をつぶしてしまうことだ)
勝と大久保は、かれらが最も愛した危険思想家である竜馬にそういったことがある。竜馬はただ冗談としてそれをきいていた。
その一場の冗談が、いま時機を得て巨大な生命を帯び、歴史を動かそうとするにいたっている。
途中省略
後藤は竜馬をみるなり、
「聞いたぞ、天下の事は成った」
と、膝を打った。
「おかげで土佐藩も救われる。徳川家も救われる。しかも一挙に新政府が樹立する。なんたる妙案じゃ」
「よろこぶのは早い」
途中省略
「あすから朝廷に政権を」
といったところで、おどろくのは朝廷自身であろう。
「その方法をつくらねばならない」
竜馬はいった。大政奉還の案だけを天下に投ずるのは不親切というものであろう。
「おぬしゃ、行き届いちょるな」
後藤が、感心した。竜馬といえばどこか粗放な感じがあるから、後藤は意外におもったらしい。
「あたりまえではないか」
途中省略
「八策ある」
と、竜馬はいった。
海援隊文官の長岡謙吉が、大きな紙をひろげて毛筆筆記の支度をした。
「言うぜ」
竜馬は長岡に合図し、やがて船窓を見た。
途中省略
後藤は、驚嘆した。
「竜馬、おぬしはどこでその智恵がついた?」
「智恵か」
思想の意味である。
竜馬は、苦笑した。後藤のような田舎家老にいっても、ここ数年来の竜馬の苦心は理解してもらえない。
途中省略
他の討幕への奔走家たちに、革命後の明確な新日本像があったとはおもえない。
この点、竜馬だけがとびぬけて異例であったといえるだろう。
この男だけが、それを考えぬいていた。
「天皇をいただいた民主政体でゆく」
というのが、船中八策の基調であった。
「おぬしはどこでそんな智恵がついた」
と後藤がおどろいたのも、むりはなかったであろう。
その答えは竜馬も、
「いろいろさ」
とこたえざるをえない。
竜馬は、最初、単純攘夷論者であったが、勝海舟に論破され、開化論者になった。
が、勤王運動の同志の多くは神国思想家で、竜馬は、
「わけのわからん奴にはものをいわん」
と称して他藩の同志にも自分のその点の本心はあまりうちあけたことはない。打ちあければ、
「洋臭者」
として竜馬は同志から斬られたかもしれない。勤王倒幕運動の同志、といってもその色合はとりどりだったのである。
とにかく竜馬は勝を知ったあと、外国の憲法というものにひどく興味をもった。
途中省略
とくに長崎に常駐するようになってからは各国の領事や商人に、
「お前の国はどうじゃ」
と会えばたんねんにきいた。
そのなかで竜馬をとらえつくした魅力は、上院下院の議会制度であった。
「これ以外にはない」
と、竜馬はかねて思っていた。
それをこの「船中八策」でうちだしたのである。その一つの理由は、
「この議会制度をうち出せば、薩長政権の危険をさけることができる」
ということもあった。竜馬のおそれているのは、薩長人が、
(薩長連立幕府をひらくつもりではないか)
ということであった。
それをやられては、なんのために多年、諸国諸藩の士が流血してきたかわからない。
いま筆者の机の上に、一冊の本がある。
「坂本竜馬と明治維新」(訳者・平尾道雄、浜田亀吉の両氏)
という書名である。著者はプリンストン大学の日本史の教授で、マリアス・B・ジャンセン氏である。
「坂本の草案には」
と、ジャンセン氏はこの船中八策についていう。
「以後二十年にわたり日本を風靡する近代的な諸観念が、すべて盛りこまれていた。老いくちた愚劣な諸制度の一掃、統治形態と商業組織の合理的再編成、国防軍の創設などである。(中略)それは武力を要せずして幕府顚覆を可能ならしめようとする方策であった」
「明治維新の綱領が、ほとんどそっくりこの坂本の綱領中に含まれている。その用語はやがて一八六八年の『御誓文』にそのままこだまするし、その公約は、一八七四年に板垣、後藤が民選議院設立運動を始めるときの請願の論拠となる」
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
船中八策 2019/03/23
かつて、武市半平太は竜馬を「奇策家」だと言った。
しかし、竜馬は自分は奇策家ではない、と言っている。
竜馬の語録を本文中から引用すると、
>「おれは奇策家ではないぞ。おれは着実に物事を一つずつきずきあげてゆく。現実にあわぬことはやらぬ。それだけだ。それをなぜ人は奇策家とみるのか、おれにはわからん」
>奇策とは百に一つも用うべきでない。九十九まで正攻法で押し、あとの一つで奇策を用いれば、みごとに効く。奇策とはそういう種類のものである。真の奇策縦横の士とはそういう男をいうのだ。
また、竜馬は「清河八郎」という人物を奇策家と言って批判している。
清河は、才にまかせ奇策を用いすぎたのと、万能があるくせに人間への愛情が無い、とも言っている。
因みに、司馬先生曰く、幕末の史劇は、清河八郎が幕をあけ坂本竜馬が閉じた。そうです。
要するに、奇策家と奇策縦横の士は違う、と竜馬は言いたかったのだろう。
革命後の明確な新日本像を考え抜いていたからこそ、船中八策でそれを打ち出すことができたし、更に、大政奉還案の裏打ちとすることもできた。大政奉還案が、単なる思い付き(記憶から引き出しただけ)であったなら失敗していたかもしれませんね。誰にも信用されなかったでしょう。三年前、竜馬自身がただ冗談としてそれを聞いていた様に。
竜馬の策は、常人には奇想天外に見えるところがあるから、その策だけを見ると、人には竜馬が奇策家だと見えたんでしょう。その裏には現実の積み重ねがあったんですけどね。
☆日々太平楽 2018/10/13
「後藤君、きみはすぐ土佐へ帰れ。帰って容堂公を説け。おれはこのまま京にのぼり、薩摩藩の連中を説いて大政奉還に賛同するよう、下地をつくる」
「手分けだな」
「容堂公を説いて藩論をそれに統一し、火の玉になって風雲のなかに駈け入れば、薩長といえども無視できまい」
途中省略
「所詮、後藤に名をなさしめるわけですな」
といった。
陸奥陽之助のにらんだところ、後藤象二郎はこの巨案をおのれの方寸から出たものとして、口をぬぐって容堂に申しあげるにちがいない。土佐の上士気質からいえば、郷士の竜馬の名はぜったいに出すまいというのである。
「きっとそうですぜ」
と、陸奥はいった。
陸奥には、そんなところがある。そういう点に潔癖で小うるさくて、それがために狭量の印象をまぬがれない。
竜馬は、そんな陸奥の欠点をよく知っている。
「ひえっ」
と、奇声をあげて陸奥をみた。
「当然ではないか。かれは参政であり、容堂公の信任もあつい。この功名でいよいよ藩内で出世すればよいのだ」
「坂本さんはどうなりますか」
「ばかめ」
川波が立つほどの大声を出した。
「おれが、あのちっぽけな土佐藩で多少の地位を得たいと思っている、とおぬしゃ思うちょるか」
「いや、それは」
「竜馬は、容堂公でさえ眼下に見くだして相手にしちょらんぞ。まして容堂公の乾分にすぎぬ後藤象二郎をや。かれがこの手柄で藩内の何様になろうと、竜馬の知ったことかい」
「えらい気焔だ」
と、横で文官の長岡謙吉が苦笑した。
「あたりまえよ」
竜馬はいった。
「おれのうまれは土佐藩の軽格のしかも冷飯育ちだが、考えちょることは、土佐藩ではない。日本のことじゃ。日本のことが片づけば世界のことを考える」
「おそれ入った」
と、長岡謙吉が、くすくす笑った。
「そのくらいの気焔でいるから日々太平楽という面相でいられるわけですな」
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
日々太平楽 2019/03/24
「ひゃっ」
後藤に名をなさしめることになるんだろうな、と思ってしまった小うるさい人間がここにも。
そのくせ、日本や世界のことを考えている訳でもない癖に、太平楽としている様でもあるし。
なんだか普通っぽくて、全然面白くないな。
☆魔術 2018/10/14
竜馬の活躍がはじまった。
土佐藩邸の幹部たちにも会い、薩摩藩へ行って西郷にも会い、承諾をもとめてきた。
西郷はおどろいた。
「そげんこつが、できもすか」
将軍に政権を返上させるなどということが武力によらずしてできるはずがない、というのが西郷の観測であった。
途中省略
「大政奉還?」
中岡は、おどろいた。とっさに竜馬がなにを真意としているのかが呑みこめなかった。
西郷はそれを説明し、中岡は沈思した。やがて中岡なりに理解した。
途中省略
中岡は刀をころがして坐るや、
「いかんチャ。竜馬、とほうもないことを仕出かしてくれたな」
途中省略
「その案をひっこめろ」
「中岡よ」
竜馬はいった。
「落ちつくことだ。挙兵、挙兵、とお前も西郷も言うちょるが、幕軍に勝てるみこみがあるのか」
途中省略
京には京都守護職の会津兵だけで千人以上はいる。京都所司代の桑名兵が五百、大坂には将軍慶喜が自慢の幕府歩兵が一万はいる。それに新選組、見廻組および他の佐幕派諸藩の兵をあわせると、この京大坂の地で幕府が動かしうる兵力は一万二、三千はある。
それにひきかえ、クーデター軍となるべき兵力はいまのところ薩摩の京都駐屯兵一千にすぎないのである。
「これでは勝てまい」
「いや、勝てる。いざというときには土佐から乾退助が千人以上の私徴の義兵をひきいてはせのぼってくる」
途中省略
竜馬のいうところは兵力の問題ではない。その兵力が同一時期に集まらねば戦力にならない、というのである。
途中省略
つまり大政奉還案を、土佐藩公論として薩摩藩にはたらきかける。そこで薩摩藩の賛同を得る。
――となれば、薩土両藩の動議として京の二条城にある将軍慶喜に上提する。その動議上提という名目によって藩兵をくりだす。
「ほう、藩兵上洛の理由になるわけだな」
「あたりまえだ。将軍慶喜がこれを容れねばたちどころに討つ、という含みがこの案にある。力がなければ案は通らぬ」
「ふむ」
中岡は、この動議を名目に両藩の藩兵を大挙上洛せしめることができる、ということに無限の魅力を感じたようである。こうなれば例えば土佐の乾退助も大っぴらにその自慢の洋式陸軍をひきいて上洛することができるし、薩摩藩も、小出しに京にのぼらせるような姑息なことをしなくても済む。
「ほぼ同時期に、京に大軍があつまる。そこへ長州軍もくる。維新回天の戦争はここで勝利が可能になるわけだ」
「ふむふむ」
中岡ははげしくうなずいた。
「もっとも徳川氏が、平和裏にその政権を返上してしまえば戦争はむこうへ遠のく。それはそれで日本国のために慶賀すべきだ。さらには中岡慎太郎」
「ふむ?」
「この動議は土佐藩から出る。それによって従来薩長の後塵を拝してきた土佐人たちも大いに面目を一新する。一石二鳥ではないか」
中岡は、納得した。
「なるほど、よくよくきいてみれば」
と首をふった。稀世の妙案だというのである。
「そう思ってくれるか」
竜馬はひざを乗りだした。
もともと竜馬の大政奉還案というのは、一種の魔術性をもっていた。討幕派にも佐幕派にも都合よく理解されることができる。たとえば後藤象二郎が理解したのは「徳川家のためにもなり天朝の御為にもなる」という矛盾統一の案、ということであった。この点、勤王か佐幕かの矛盾になやむ山内容堂にとってはこれほどありがたい案はない。
一方、中岡のような討幕急進派にとっても、大政奉還の気球をあげることによって、合法的に討幕兵力を京に集中できるのである。
要するに、政治がもつ魔術性をこれほどみごとに帯びている案はないであろう。
創案者の竜馬の本心は、むろん中岡と寸分かわらない。が、土佐藩を藩ぐるみ討幕勢力に巻き入れるためには、後藤に理解させたような幕府への情義的な要素も多分にふくめ、それを強調せねばならないのである。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
魔術 2019/03/24
「力がなければ案は通らぬ」
綺麗ごとだけで済ませる事なく現実も忘れないところが、にくい殿方でございます。
この浮世で欲を去った人以外であれば、自分に都合の良い事は皆大好きな訳で、それが、佐幕、討幕、果ては日和見まで、ささどうぞ、どうぞこちらへ、と雑多な欲を取り込む魔力を放つ「大政奉還」案。
四字熟語だけでは窺い知ることのできないその裏側を覗き見てしまうと、大政奉還実現迄の道筋にも俄然興味が湧いて来る。
英国人水兵惨殺事件も一部並行して進んで行きます。
☆源氏も平家も大騒ぎ 2018/10/16
「情勢がすこし好転してくると、あの固陋な藩の上士のなかにも俄か勤王家が出てくるものか」
と、竜馬はそれがおかしかった。惨憺たる弾圧時代には上士はみな幕府御大切で、勤王派の郷士や軽格どもを盗賊のようにいったものだ。
「そういう相場買いの客は大切にせい。それが時勢に勝つ道だ」
とも竜馬はいった。
佐佐木三四郎高行は、はたして「相場買いの客」かどうかはわからない。
途中省略
ただ、この長い物語は、無数の傾斜した性格をもつ人物群をえがくことによってここまで進んできた。圭角のある、傾いた、どこかに致命的な破綻のある人物が、無数に登場してきた。すべての登場人物がそうであったといってもよい。それらの男どもは、圭角と傾斜と破綻があるがゆえにいつも自分の真実をむき出してきたのか、それとも自分の真実を剝きだしてしまっているがために圭角ができ、傾斜ができ、破綻ができたのか、その相関関係はよくわからない。
ただ安政以来、日本史上最大の混乱のなかで奔走してきたこれらの型の男どもは、その圭角と傾斜と破綻と、そして露わにむき出した真実のために非業のなかで死んだ。
それらの型からみると、およそ佐佐木三四郎という人物はちがう。
すべて手頃なものをもっている。
必要最小限の反骨もある。自分の才智を他人にみせるための香辛料のようなものだ。大きく反骨を露呈すれば志士型の人間になってしまうが、「新進気鋭の官僚である」という才能を化粧する程度の反骨ならば度を越してはならない。
処世に必要な包容力ももっていた。それも薩の西郷にみられるような哲人性を帯びた包容力ではなく、ごく技術的な、処世上のものであった。頑固な藩内佐幕派とでも仲よく酒を飲めるし、乾退助のような過激な勤王派とも相槌をうつことができた。
「屁のような男じゃ」
という者もあり、
「いや、やりてじゃ」
と、その政治能力を買う者もある。しかしすくなくとも身を殺して仁をなす、といった型ではなく、なんとかわが身を殺さず仁をなす工夫がないかと考える型であり、しかもその仁をなすことによってわが身の立身になりはしまいかと終始考えている型である。
要するに有能な官僚というのは、こういう型を指すのであろう。
途中省略
佐佐木三四郎の上京というのは、彼にとって生涯の大仕事であった。
その主任務は、
「大政奉還案をもって京都藩邸の意見を統一せよ」
というところにある。
途中省略
能弁な男で、二、三さしさわりのない話題を佐佐木は出した。竜馬はむっつりきいていたが、多少失望した。
(頭は、よくない)
佐佐木の話しぶりはすらすらと言葉は弾むのだが、独創性がない。一つの概念をしゃべるとき、その内容か表現に独創性がなければ男子は沈黙しているべきだと竜馬は思っている。そのつもりでいままで自分を律してきた。
(薩の西郷や大久保はこの佐佐木のようではない)
多少の失望を感じたが、乾退助、後藤象二郎のほかは人材皆無といっていい土佐藩上士のなかでは、佐佐木などは上等の部類だろうと思ったのだ。
途中省略
(いったい、この男は単に化粧としての勤王なのか、討幕の気持があるのか)
竜馬はゆるゆるさぐりを入れている。それがわからねば大政奉還論の説明の仕様がないのである。なにしろ原案は勤王・佐幕両面の説明ができるというふしぎな性質のものだ。
(どうやら、どっちつかずらしい。討幕情勢になれば討幕にゆくという男らしい)
竜馬はそうみて、説明を開始した。佐佐木は独創力はなかったが理解力は明晰だった。
「わかった。いま藩内は源氏も平家もこの案で盛りあがっている。とにかく芝居はやるところまでやってみるから、まずその辺は安心あれ」
途中省略
(こいつはまがいものかも知れぬが、そうとしても本物同然で使えるまがいじゃな)
と見てとった。
こうなれば、本物にしてしまうより手がない。
「佐佐木君、安政以来、多くの草莽の士が活躍し、非業に斃れた。彼等は時勢を紛糾させたところもあるが、大きく進めもした。その功と死は日本人が永遠に口碑として記憶すべきだろう。しかし今からの芝居の幕は、それら草莽の志士よりも役人の出る幕だ。役人は藩をにぎっている。藩そのものが動かねば大芝居は打てぬ」
「菲才ながらも」
佐佐木はこの言葉をよろこび、
「死力をつくしてやる」
といった。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
源氏も平家も大騒ぎ 2019/03/27
「そういう相場買いの客は大切にせい。それが時勢に勝つ道だ」
あからさまな「相場買いの客」なんかには、カチンッときてしまうと思うんですがね、しかも盗賊呼ばわりされていたら尚更だな。
「屁のような男じゃ」だの、(頭は、よくない)だのと、酷い言われようだけど、何故かすっきり腑に納まってしまう。
圭角と傾斜と破綻がある筆者にも独創性には多少の拘りがあるけれど、頭のほどを竜馬に聞いてみたい。失望しちゃうかな。
☆黒仙人と白仙人 2018/10/19
竜馬はこの間、京の材木商酢屋に潜居しつつ、大政奉還案の実現のために八方奔走していたが、
(問題は当の幕府がどう出るかによってきまる。その肚をたたき、できれば説得したい)
と思うようになった。ちなみにこの段階ではまだこの案は正式に幕府に発せられていない。正式に出るにはなお多少の時日が必要であろう。
途中省略
(妙なときに妙な男がきた)
永井尚志は、会うか会うまいかを考えつづけた。もともと即断家ではない。
(それにしても大胆な)
と思うのだ。坂本竜馬といえば、薩の西郷吉之助、大久保一蔵、長の桂小五郎とともに幕府のもっとも忌みきらう名ではないか。それが白昼堂々と、幕府の大目付である自分の宿所にやってきたのである。永井は竜馬を捕殺する理由も権能もある。
(まったく、世の中には常識をもっては考えられぬような男もいるものだ)
途中省略
「君は・・・・・・」
永井は絶句した。ぶらっとやってきて鳥や楊梅の話をしていたかと思うと、急に幕府の政権を返上しろ、という。話といえば古今こんな大きな話はあるまい。
「いやさ、お気軽に考えていただきます」
と、竜馬は永井の昂奮をたしなめた。こういう話は話す者も聞く者もつい昂奮しがちなものだ。しかし昂奮すれば理の筋がわからなくなる、と竜馬はいった。
「たとえばこの庭をながめ、楊梅の話をしながら、それと同じ調子で話しあってみる。すると物事の道理があきらかになってくる。そういうものでありましょう。楊梅も幕府もかわらない」
途中省略
「いかがでありましょう。幸いこの建物の名は閬風亭でござる。そこに池がある。あれは瑶池(玉を溶かした池)のつもりでありましょう。閬風瑶池とは仙人の住む山里のことだときいています。さればここでむかいあっているのは、大公儀の顕官でもなく、土佐うまれの浪人でもない。下界の人間ではなく、天界の仙人としてこんにちの日本の課題を話しあってみては」
「仙人かね」
「自然、下界に対して責任はない。なにをいおうと勝手です」
「言い給え」
永井は、竜馬のせっかくの趣向に乗ってやった。
「さて黒仙人としてはですな」
竜馬はいった。色が黒いから、そんな風に自分を名づけた。とすれば永井は白仙人ということになるだろう。
「徳川幕府は三百年の泰平を仕遂げた。この功は百万年後も日本人のわすれ得ざるところでしょう。しかしもはや、屋台骨は腐り、雨漏りがし、人間の居住に堪えない。補修の仕様もない。もしこのまま放置すれば、柱は折れ梁は落下し、住む者はことごとく圧死します。このことはいかがです」
「いや、補強の方法はある」
「幕府を中心とする郡県制度でありますな」
「知っているのかね」
「大名を取りつぶし、抵抗する大名はフランスの軍資金、武器、軍艦をもって攻め潰し、そのあとで郡県制を布こうというお考えでありますな」
「念を押すな。わしの口から申せぬ」
「白仙人、ここは天界でござるぞ。いやいやその御返答はどうでもよろしい。しかしそれをなされば諸大名は抵抗する。内乱がおこる。途方もない内乱がおこる。しかもフランスが日本を武力平定するかたちになる。英国はだまっていますまい。かならず抵抗する大名側に味方し、同量以上の軍資金、武器、もしくは軍隊まで送りこんでこの六十余州を戦場と化してしまいましょう。されば英仏の戦いでござる。英仏いずれかが勝てば、勝ったほうが日本をとりましょう。この点、いかが思召さる」
「仙人の立場で言おう。きっとそうなる。そのような結果は招くべきではない」
「さればいっそ、屋敷を補強なさるよりも、別の場所に新築したほうが日本のためによろしかろう」
政権を朝廷に返上せよという意味である。
途中省略
「徳川家への御忠節ということはわかる。武士としてはそうありたいことですな」
とはいうものの、竜馬は本心から言っていない。武士はその主家に忠義をつくすべきものというが、竜馬の場合はすでに主家の山内家を捨てた。脱藩とはそういうことだ。脱藩人に忠義をうんぬんできる資格もないし、同時にそういう倫理は古いと思っている。
「いま日本の武士に必要なのは」
と、竜馬はいった。
「主家に対する忠義ではない。愛国ということです。・・・・・・古来、武士は」
・・・・・・・主家あるを知って国家あるを知らなかった、と竜馬は説きつづけた。忠義は知っているが、日本を愛することは知らない。日本六十余州のみが唯一の世界であったときはそれでよかったし、それでこそ世界に冠たる日本武士道は出来あがった。しかしいまやそれが邪魔になっている。
途中省略
「歴史がかわったのだ」
竜馬はいった。
「この前古未曽有の時代に、鎌倉時代や戦国時代の武士道で物を考えられてはたまらぬ。日本にとっていま最も有害なのは忠義ということであり、もっとも大事なのは愛国ということです」
「たれに遠慮もいらぬ君の立場なら、私もそういうだろう。しかし私は幕臣だ。頭でわかっても、情義としても実際の面でもそうはゆかぬ」
「やはり鎌倉武士で行きますか」
竜馬は、皮肉でなく言った。竜馬はこの永井尚志という人物の時勢への理解力がどれほどのものであるか、敬意をこめて知っている。
「鎌倉武士か」
永井は、吐息をついた。
「場合によっては、そのように生きて行かねばならぬだろう」
「となれば、日本に内乱がおこる。日本はつぶれ去るかもしれませんな」
すでに議論は煮えつまった。あとは結論か、最後の言葉があるのみである。この場合、おなじことを中岡慎太郎がいえば、目を瞋らせ、
「永井殿、足下は日本をつぶして徳川家だけが生き残ろうというご魂胆か」
と、舌鋒するどく切りこんだであろう。中岡は当代もっともすぐれた論客の一人だが、その議論はあまりにも堅牢でしかも鋭利すぎ、論敵に致命傷を与えかねない。
が、竜馬は、議論の勝ち負けということをさほど意に介していないたちであるようだった。むしろ議論に勝つということは相手から名誉を奪い、恨みを残し、実際面で逆効果になることがしばしばあることを、この現実主義者は知っている。
(すでに議論で七分どおり、当方のいうことに相手は服している。あとの三分まで勝とうとすれば、相手はひらきなおるだろう)
竜馬はそろそろ鉾をおさめようとした。
が、鉾には収めかたがあろう。竜馬は議論ではなく、商人が値の高い安いを吟味しているといった口吻に変えた。
「そりゃ、鎌倉武士の忠義と闘争心で今後の幕府を運営してゆきなさるのもいい。となれば、勝つか負けるか、という値踏みの問題だけが残ります」
「値踏みと申すと?」
「幕府が戦争に勝てるか、ということです。勝てる戦争ならおやりになったほうがよい。負けるとわかった戦争ははじめからおやりにならぬほうがよい。これは古来、名将の道です」
途中省略
さらに考え方を別にすれば、衰亡してゆく政権の当路者は、むしろ臆病で無能で無策なほうがよいのかもしれない。その無策無能のゆえに歴史に貢献するということもいえそうである。
(永井殿は、そのどちらだろう)
すぐれた頭脳はもっている。しかし小心で優柔で行動力にとぼしい。要するに治世の能吏なのである。乱世の有能者ではないであろう。
永井尚志は、池畔をめぐっている。
やがて部屋にもどってきて、
「君の計算が正しいようだ」
と、力のない声でいった。勝敗論でいえば幕府は負けるという意味である。
「となれば、あざやかにここで大政を奉還して徳川家を無傷で残すということになされては如何。かくてこそ内戦の患も避けられ、日本は新生し、徳川家の功績は万世にかがやきましょう」
「そのこと、私の口からはいえない」
と永井はいったが、その顔色からみて竜馬は、自分の意見と正反対ではないことを察した。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
黒仙人と白仙人 2019/03/27
竜馬の説得術。これなんかは独創中の独創なんだろうな。粋だけど、下手に真似でもしたら、想像するだに恐ろしい。
「日本にとっていま最も有害なのは忠義ということであり、もっとも大事なのは愛国ということです」
どんな宗教家であれ哲学者であれ、理想(究極)を目指した筈で、歴史に晒され耐えて来ただけでも絶大な価値はある。しかし、その思想が理想に過ぎるがゆえに浮世離れしていく、とも言える。武士道とて例外ではないでしょう。
きれいな水には魚はすまぬ。水が清らかすぎても、ましてや理想の魚像などを求めてしまうのも、見果てぬ夢を追いかけているだけの様な気がする。
いつの時代にも漂う浮世であっても理想は絶対不変なのか、浮世の要求に合わせて思想も変わるべきか、それとも思想自体を別のものへと柔軟に替えていくべきか。
その思想が、浮世に合わなくなってしまった時にそれでも固執してしまうと、有害なものになってしまうでしょうね。
どんなに素晴らしい思想であっても、それを行なうのは人間だから、徐々に形式化していってそこに「美」を重ねる様になってしまえば、形式美にばかり囚われてしまう様になり、やがて本来の趣旨から外れて行って邪魔なものへとなり果てていくのか。
人の所業などは、殆どがこれを繰り返している様にも思える。
武士道、を一言で表現できる言葉があるのかは知りませぬが、第一は忠義なんでしょうか。
愛国、も「お国のため」としてしまうと、国家あるを知って人あるを知らなかった、と同然になってしまう。
どちらも忠誠心になってしまいますが、竜馬の言う愛国には別の意味があるんでしょう。
忠誠心もあまりいい感じでは無いけど、世の中一人で生きていられる訳でも無いから、浮世の義理みたいなもので仕方がない。
ただ、今で言えば体育会系にも見る事ができる、そこに階級を伴った支配が見え隠れしている忠誠心は、いつかは自分も、という下心があるんでしょうね。
愛国も、定義が曖昧であるとひょんなきっかけで先祖返りしないとも限らないから、新しい意義付けをしておいたら良いと思いますが、特に気の利いた事も思いつかないけれど、やはり「浮世の義理」とでもしておきたいですね。
現代において大事なのは何でしょうね。愛人(囲う奴じゃなくて、・・・)、その意味は庶民が主役、でどうですか。
☆駈け出す大仏と外務大臣 2018/10/20
「もっと仲良くやることだ」
「ぞっとするな。坂本さんの言葉とは思えませんよ」
「なぜだ」
「仲良く、などは、よほどの悪趣味か無智のしるしですよ。村の祭礼で若い者が馬鹿声をあげて仲よくやっている、そんな調子を、坂本さんは望みますか」
「わからん」
「あんたはわかっているはずだ。だからこそ私はあんたに付いている」
陸奥のいうところは、若者が物事を真剣に考え、徹底的に考えぬくときに、もはやいい加減な調和の中などで仲良く暮らしてゆけないというのである。
「物を考えぬ阿保どもだけが仲良しですよ。ぞっとするようなふんいきだ」
「酒宴で仲間が酔っているときに、お前だけが、醒めているというわけか」
「悪い例だが、まあそうです」
「醒めているだけでなく、まわりの酔っているやつをへらへらと冷笑している」
「悪い例だな」
「しかしそのとおりだろう。その状態はおれにもわかる。かつて武市半平太が土佐勤王党を組織し、土佐七群の郷士の子弟二、三百をあつめた。おれも欣然参加したが、しかし彼等が酩酊しているごとくにはどうしてもおれは酔えなかった」
「そうでしょう」
「しかしおれは、一緒に酔っているふりをしてきたぜ。いまもかわらない」
「その点はまねが出来ぬ」
「男子はすべからく酒間で独り醒めている必要がある。しかし同時に、おおぜいと一緒に酔態を呈しているべきだ。でなければ、この世で大事業は成せぬ」
途中省略
「長岡謙吉が、毎日毎夜、あぶら汗を流して万国公法を国訳しちょる。おンしはそれをまじめに手伝おうとせぬ」
途中省略
いま大政奉還案をめぐって政情が混迷しつつあるが、竜馬にすれば事はかならず成就するとみていた。佐幕・倒幕の渦がどう変転しようと水の流れはそこへ落ちてゆくと確信している。
「すると、新政府ができる。樹立すればその日から幕府にかわって外国と直にあたらねばならぬ。その日から必要なのは、万国公法じゃ。これは盲人の杖のようなものぞな」
新政府に参加するであろう公卿や諸藩先覚の志士たちも、万国公法の存在さえ知る者がすくなく、まして一行でも読んだ者はまず居まい。このためにその国訳は一日をあらそう緊急事だった。
「しかし、私は英語ができませんよ」
途中省略
「おれは漢籍もわからん。英語もわからん。しかしものの本質はわかる。陸奥陽之助は万国公法の国訳を手伝い、手伝って覚え、あわせて英語を習得しろ」
「どうして私にばかり、そう過酷なことをおっしゃるのです」
「新政府ができる」
竜馬は茶碗を置いた。
「外国のことを、わけわからずの公卿や薩長の蛮士どもにまかせられるか。外国のことは海援隊が一手にひき受けねば、とほうもない国辱の沙汰がおこる。おンしは、日本の外務のことを一手にやれ。おれはそう決めている」
「驚いたな」
陸奥は、目が醒めたような顔をした。自分の価値が、それほどまでに竜馬に評価されていようとは思わなかったのである。
「やるかね」
「やりますよ。そこまでおだてられちゃ、奈良の大仏でも駈け出すでしょう」
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
駈け出す大仏と外務大臣 2019/04/06
あまりにも身につまされる話で、これは難問だな(強いて置いておきたい)
竜馬も、こういうところは佐佐木三四郎の様でもあるし、複雑というか捉えどころが無いというのか、でも、けっこう心の奥底に毒を隠し持ってるんだね。使いようによって薬にもなってるから良いんだけどさ。
☆友情 2018/10/23
(妙なお人だ)
寝待ノ藤兵衛は竜馬のことをおもった。自分の藩の殿様には御目見得の資格がなく会ってもらったこともないのに、土佐よりも大藩ではるかに家格も高い越前候松平春嶽にだけは不意にやってきても拝謁できる。
途中省略
「容堂公に申しあげたいことがある。それを春嶽公が代わって土佐藩へ御教示願いたい」
「ははあ、貴殿の代理として?」
途中省略
「つまり、容堂へ手紙を書けというのか」
「左様にして頂きますれば」
「ああ、してやりますとも。どう書けばよい?」
竜馬は、その内容を弁じた。万一下手人が土佐人であったときの態度についてである。
そのときは容堂流の横車を押すとかえって事がこじれ、問題が大きくなる。ぜひ条約に則り、国際信義の上にたって処理していただきたい。それしか道はない、というのであった。
「なるほど、容堂は英雄だからな」
松平春嶽は品よく笑ったが、口吻に多少の皮肉がこもっている。
途中省略
むしろ竜馬のおそれるのは、容堂のその景気のいい啖呵や、その寸鉄人を刺すような毒舌であった。それを英人に言ってのけた場合、彼等がどんな揚げ足をとって来ぬともかぎらない。
(それではこまる)
と、竜馬は思うのだ。いまこの時期、英国と紛争をおこせば、目下幕閣や諸藩に対して事前工作中の土佐藩提議の大政奉還案は一挙に崩壊するほかない。竜馬としてはいまのところ、ひたすらに国内の無事を願い、犬の喧嘩をさえ怖れたい心境なのだ。
「それはそうと、そちは海援隊でもって万国公法の翻訳をしているそうだな」
「そのことでござりまする」
竜馬は得意な万国公法について弁じ立て、日本国および諸雄藩が万国公法を守らないかぎり、欧米の列強はつねに日本を野蛮国視し、野蛮国と見つづけているかぎり対等のつきあいをしないであろうと言い、
「さればこそこのたびのことも、すべて万国公法に則るよう、わが藩の老公におさとし願わしゅうございます」
「ああ、手紙を書こう」
途中省略
書きおわってから春嶽は、
「これでよかろう」
と、竜馬にみせてくれた。竜馬は読み進んでゆくに従って春嶽の好意に感動し、あわてて顔を振った。その拍子に涙が畳の上にこぼれ落ちた。
「拙者、野人にて」
――奉謝の言葉を存じませぬ。と言うと、春嶽は竜馬の涙顔がおかしかったらしく、
「この男が、がらにもないことをいう」
声を立てて笑い、
「わしの坂本竜馬に対する友情だよ」
といった。御三家に次ぐ家格の大名が、路傍の士にすぎぬ竜馬に、友をもって呼んでくれたのである。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
友情 2019/04/09
封建社会の秩序を嫌った竜馬でも、この一瞬の喜びは如何ほどのものであったか。
この時代に、「国際信義」を考えていた人物がどれほどいたんだろう。
しかも、それが藩を見捨てた人物の口から飛び出してくるから、世は不思議。
でも、これは分かる様な気がする。大きな事を考えているから身近な事が些細に感じてしまうのかと。
最近の国際情勢は、どの国も信義より利害の駆け引きに夢中になっている様に感じるのは、気のせいなのか。
どこもかしこも野蛮になって行くのか、まさか、であって欲しい。
☆茶飲み話 2018/10/27
容堂は、自分の座からもっとも近くにすわっている門閥家老の福岡宮内に対しては一瞥もくれない。人の才華を愛することはなはだしい容堂は、無能で尊大なだけの家重代の飾り家老というのが、やりきれぬほどきらいなのである。
佐佐木は平伏し、わずかに上体をおこし、畳の目を見つめつつ、このたびの事件のあらましを的確に言上しはじめた。
容堂はべつに驚きもせず無言できいている。ときどきあごをひいてうなずく。その一種凛然とした風姿はこの殿様が平素自負しているように戦国風雲のなかの古英雄に似ている。
途中省略
最後に破顔し、
「なにぶん、やかましいことだ」
といった。
よきに計らえ、ということである。容堂はこの事件についてこの一言をいったにすぎない。佐佐木の腕を信頼しているのであろう。
途中省略
この一藩あげての騒ぎのなかで、容堂は高知城下の散田屋敷を動かず、挙措顔色は日常とおなじで、その日課の豪酒はあいかわらずつづけている。
ただ藩吏どものあまりのさわぎを見かね、家老数人をよびつけて、
「わずか一隻の英国軍艦がやってきたぐらいで東奔西走し、あるいは剣を撫して彼を撃攘しようなどとわめき散らしているのは、勇気に似て勇気ではない。単なる狂躁である。土佐人は世界を敵にまわして大喧嘩する度量をもたねばならぬが、それには心身を沈静にし、志は遠大に持ち、目をはるかかなたに付け、かかる小事を処するにあたっては茶飲み話でもするようにして片をつけるべきだ」
といった。その容堂の態度は、さすがに凡百の藩吏どもとくらべると巍然として高い。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
茶飲み話 2019/04/11
容堂は剣客で無外流の達人でもあって、こういうところは道を究めた人物ならではなんでしょうかね。
ただ、「世界を敵にまわして大喧嘩する度量」などと景気の良い大言壮語が口から出て来るのが、少し変わったお殿様だなと。
もっとも、気宇の大きさとの見方もできそうですが、例えば、土佐商会を世界一の商社にする、とでも言うのなら異論は無いけど、大喧嘩だからなあ。例え話だとしてもこういうただの度量のつもりが、後に現実になってしまいそうな、しまった事もあった様な。
世界を敵にまわした大喧嘩と言えば、かつて、大艦巨砲主義が主流をなしていた頃に、蜂の大群で打ち破った過去がある。最近、企業が大艦化に進んでいる様だが、この流れは更に続くのか。これは蜂の大群では歯が立たないのか。そうであったとしても、また別の天敵が現れないのか。これは余談。
容堂の様な人物が、一番学ぶ点が多いというか教訓にできるというのか、いい意味でも悪い意味でも、人間が自分では気づかずに陥ってしまいそうな生き方の見本を見ている様だ。凡人でもないから、そこが尚更良い。当てはまる範囲が広そうだ。
とはいえ、後藤が大政奉還案を己の方寸として(陸奥の見込み通り)進み出て来た時に、後藤の才能?に狂喜すると同時に、門閥老人どもの反対を押し切って抜擢した自分の才能にも酔いしれてしまうあたり、やはり凡人なのか少々微妙ではある。
何はともあれ、まさかのオチを投げ入れてしまうには少々気が早すぎたが、旅はまだ続くのです。
☆悪鬼と法螺と古狐 2018/10/28
辞儀もそこそこにパークスは口をひらき、すさまじい早口で、土佐藩士はわが国の軍人を殺した。しかも藩は犯人を隠匿している、何事か、と、どなり、卓子をたたいた。
立ちあがっていた。
後藤はそっぽをむき、ほとんど冷笑しているような面つきである。この態度がパークスをいっそうに激昂させた。
激昂ではなく、パークスの手であった。在来東洋人に対しては一喝をくらわせ、相手を顔色なからしめてから議題に入るのがこの男の手であり、広東でも上海でもこの手で成功してきた。
途中省略
後藤は例の面つきでうなずき、パークスにむかって「まず訊きたい」といった。
「当初われわれは、貴官が交渉の目的でこの土佐にやって来られると伺っていたが、どうやらそうではないらしい。いやしくも拙者は使臣である。それを前にただいまのお手前の無礼兇暴の態度はどうであろう。されば御目的は交渉ではなく挑戦とみた。挑戦ならばこれ以上拙者がここですわっているのは無用である。談判の中止を希望する」
途中省略
「彼は公使の以前の相手とは毛色がちがうように思われます」
といった。パークスは日本着任以来この若い通訳官の人物眼を信頼していたのであさっさり態度をあらため、後藤に対し、
「私が悪かった」
と立ちあがってあやまった。この植民地商人あがりの(という前歴がある)外交官は辣腕家であるわりには単純な男だった。
「じつは私の先入主が私を誤らせたといえる。私はかつてシナの大官を相手に交渉してきた。そのときはいきなり威圧的態度で臨まなければ、議題がいつまでたっても進まなかった。その悪しき経験が貴官に無礼を働かせた。ふかくおゆるしを乞う」
「わかれば結構なのだ」
後藤は煙管に莨をつめながらうなずいた。
途中省略
談判の途中、船室から、妙な光景が望見された。山麓の東西にのびる道路上に武装兵の群れがしきりと駈けまわっているのである。
パークスは再び首筋を赤くした。外交交渉中に陸兵を馳駆させるとはなにごとかと思ったのだ。怒気をこめ、
「あれは一体なにごとですか」
ひらきなおると、後藤はちらりと船窓を見て軽く笑い、
「何さ、猪狩りでござるよ」
と片付けた。
このぬけぬけした法螺にはパークスも苦笑せざるをえない。あとはそのことに触れなかった。
「とにかくこんな水掛け論をしていてもはじまらない」
と後藤は通訳官のサトウにむかい、
「互いに自説を捨てよう。私は犯人は土佐人でないという自説を捨てる。貴官の側は土佐人であるという説をお捨てなさい。双方で長崎へ人を出し共同で捜査しようではないか」
といったが、パークスはなおも頑固に「いや、われわれには確証がある」と言い張ったために後藤も苦笑し、この日は物別れになった。
後藤が帰ったあと、パークスはすっかり彼に惚れ、
「自分がいままで会った日本人のなかで最も聡明な人物の一人だ」
といった。
途中省略
パークスという男は後藤のような自尊心に満ちた相手に対しては礼儀ある態度をとり、おなじ日本人でも哀れみを乞うような交渉相手には悪鬼羅刹のような態度をとるらしい。
後藤が帰ったあと、幕艦から幕府の外国総奉行の平山図書頭がやってきた。サトウなどの若い館員たちが、
「古狐」
とよんで軽蔑している幕吏である。教養はあるかもしれないが無能でずるくてつねに哀れっぽい。
この場合、交渉がおわったあと顔を出しては何もならないであろう。しかし平山としては土州と英国側の掴みあいのような談判の席上に顔を出して幕吏としての発言を求められるのは、あとあと双方に言質をとられることにもなろうし、責任上不利だとみて逃げていたのである。
「それが、日本政府の官吏の常套手段だ」
と、パークスは居丈高になってどなりはじめた。外国総奉行といえば、一国の外務大臣に相当する位置だが、それをパークスは給仕でも叱るように叱った。
途中省略
その夜、パークスはサトウにむかい、
「幕吏と藩士はちがうな」
といった。幕吏は腰ぬけで、雄藩の藩士は気骨がある、というのである。もともとこの観察は英国側が早くからもっていたところで、むしろ幕府に見きりをつけ、反幕意識のつよい雄藩の将来に期待するというのが、英国の対日外交の秘めたる基調になりつつあった。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
悪鬼と法螺と古狐 2019/04/14
後藤サンの濫費癖(普通であれば、お縄)も藩内では評判がわるく、近頃はあまり人気も無い(そりゃばれるわね)
しかし、そんな田舎家老の後藤サンにも燦然と輝く舞台が用意されていたのであった。あぁ、歴史とは奇ナリ。
自尊心に満ちた法螺を受け止めてくれたのは、パークスも人物なのか後藤サンのオーラ、いや単なる倨傲か、それとも古き良き時代であったが故なのか。
近年は、気骨を愛でる余裕などと悠長な事を言ってるご時世でも無さそうで、一抹の寂しさを感じてしまうのです。
古狐、古狸は探すまでも無いし呼んでもいないのに、向こうからやってきたりしますけどね。古狐も策戦の内じゃ、とでも言い出すんですかね。そんなものなのかな。居なくなっても別に寂しは感じないと思うけど。
☆紙きれ一枚 2018/11/05
「大体の様子は」
と、岡内は渡辺参政、本山大監察の意向を伝え、そのあと後藤上京の一件を伝えた。
「長崎の水兵斬りの一件が落着したという報が高知に入ると、後藤はすぐ船で高知を離れ、上京した。しかし藩兵を一人も連れてゆかなかった」
「大政奉還案の建白書一枚を持って行っただけか」
竜馬の足がゆるやかになった。全身の力が一時にぬけ落ちたような気がした。
途中省略
「落胆してくれるな」
「ああ、せぬ。おれは落胆するよりも次の策を考えるほうの人間だ」
言いながらも、竜馬の足どりは重たげであった。自然、岡内は多弁になった。
「容堂公は、藩兵をひきいて建白書を出すのは脅迫によって議論を通そうとするようで男子の道ではないとおっしゃる。あくまでも公論によっておこなえ、とおおせある」
「そのとおりだ、公論によって国のことが行なわれる世にしたいというのが、おれの素志でもある」
そのために竜馬は船中八策を書き、大政奉還案の裏打ちとした。
「しかし」
竜馬はいった。
「口舌と一片の文章だけでは徳川氏も動くまい。むかし家康は馬上天下をとり、その子孫十五代は武によって六十余州を治めてきた。その政権を、容堂公は紙きれ一枚で投げ出させようとなさるのか」
殿様だな、と竜馬は思わざるをえない。いかに明晰な頭脳のもちぬしでも殿様というものはついには世のことがわからぬらしい、と竜馬はおもった。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
紙きれ一枚 2019/04/15
「男子の道ではない」
容堂ここにあり、その通り。
例え、お殿様(気取りか)と言われようが、世のことがわかっていないと思われようとも、男子の道を問われてしまえば、それを丸めて投げ捨てることは難しいのです。
ただ、容堂の本心には、藩兵を出すと薩摩に利用されてしまう恐れがあったため(もあると思われる)、薩に利用されてたまるか、というのもあったんでしょうな。
☆運命は自ら選べ 2018/11/12
その松ケ鼻の茶亭に入ると、すでに参政渡辺弥久馬は待っていた。
ほどなく大監察の本山只一郎が同役の森権次を伴って駈けつけた。
かれらは、
「坂本先生」
とよんだ。土佐出身の一介の浪人に藩の顕官たちが先生をもって呼ぶのは、竜馬を敬しているというよりも竜馬の背景の新しい時勢にそれほど戦々兢々たる心境になっている証拠であろう。
途中省略
最初は怪獣でもみるような目で怖れとめずらしさ半々の表情で用心ぶかく対座していたが、しかしものの二十分もすると竜馬のふんい気のなかにひきこまれた。竜馬の言説は雄弁とはいえない。ちょっとどもったり、ときどき沈黙したり、かと思うと一同が吹きだすような譬えばなしをひきだす。
驚くべきことに、この勤王家が勤王の一語も発しなかったことである。
「思想は別だ」
という意味のことを、竜馬は何度も言いかさねた。思想は人それぞれであってよく、そういう議論は閑人にまかせておけばよい。歴史はいまや思想や感傷を越えてしまった。もはやこのぎりぎりの段階では歴史とは物理現象のようなものである。と、竜馬が説く。その説き方はいっさい抽象的な表現を用いず、一つ一つ具体的に話した。その論述の主題は、
「利害」
であった。土佐藩にとっていまどう動くことが得かということである。そういう説き方でなければ上士出身のこれら高級官僚の心をとらえられぬということを竜馬は知っている。
途中省略
「回天は数日後に来る。数日後である。いま地を蹴って起たなければもはや敗北者の位置に落ちる。歴史は懦夫に対してなんの哀れみもかけてくれない。卿等は土佐藩を背負っている。君公と藩を、懦夫や敗者の位置に堕していいのか」
かいつまめばこういう論旨だが、そのどのくだりも事実の裏打ちをしつつ語りすすめてゆくために、三人はことごとく竜馬の意見に服し、ほとんど、
(こいつら、狂気したか)
と竜馬自身が首をひねるほどにかれらは昂奮し、緊張と焦躁と憂憤で座に堪えられぬような身ぶりを示した。
途中省略
藩庁では相変らず出兵・非出兵の論議で大さわぎをしていたが、竜馬はこの滞在中はこんな他愛もないことで日をすごし、二度と議論を繰り返さなかった。
――土佐藩は土佐藩の運命を選べ。
というのが竜馬の正直な肚で、半ば見切りをつけていた。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
運命は自ら選べ 2019/04/19
「思想は人それぞれであってよく」
現代でも堂々と通じる自由かつ民主的な思考で、むしろ現代人の方が赤面するぐらい、というか反省した方が良さそうな。
自分の思想(右でも左でも、どこでも良いとしても)を、他人に迄押し付けようとする動きは見られますよね。
筆者も今までは、右でも無く左でも無い、と自称していたけれどこれは訂正しなければならない。右でもあり左でもある、均せば大体真ん中ぐらいかな。押し付けようと思ってもいないんだけど、竜馬と比べると偏ってるところもある様な気がする。
藩とすれば、それまでの思想、秩序を覆す事にもなる革命なれば、それを説くには利害だけに絞るのも一つの策ではあるし、いっそのこと利害だけで解決してしまえば簡単なれど、そうもいかないんでしょうな。
薩長連合の時は、勤王という思想では一致していたから、最後の段階の感情のもつれは利害で解きほぐせたとしても、この場合は、思想と利害が入り乱れてしまっても仕方ないんでしょう。
☆後藤奔走ス 2018/11/18
「これが、将軍へ奉るわが藩の大政奉還建白書でござる」
と、後藤はいって一書を西郷にみせた。
・・・・・・誠惶誠恐、謹で建言仕候。
からはじまる堂々たる文章で、時勢の推移を論じ、大政奉還の妥当なることをのべ、天皇政府確立後、上院下院の議会を設け、庶民にも議員選挙・被選挙権をもたしめ、さらに軍事、外交、学校制度にまで言及したもので、論文としてはこれほどみごとな文章はちょっとないであろう。
が、この原案を竜馬からきかされている西郷にはべつにめずらしい論旨でもなく、一読して、
「結構なものでごあすな」
と閉じ、あとは後藤の雄弁をうわのそらできいた。西郷のほしいのは土佐藩の雄弁ではなく、その武力であった。
ついに西郷はたまりかねて、
「後藤殿、兵隊は来ちょりませんな」
と、話の腰を折った。
途中省略
「されば薩としては賛成しかねる」
西郷は頑として譲らず、ついにこの日の会談は物別れになった。
途中省略
が、後藤のほうもあきらめず、再三薩摩藩邸に足を運んできては西郷を相手に雄弁をふるい、説きに説いた。ついに後藤は論法を変え、
「武装蜂起の時限まで、土佐藩と道連れになってくれ」
という点で了解を求めた。この論旨には、薩摩藩も承諾せざるをえなかった。
途中省略
当然、後藤は、政権を投げ出す側の幕府の要人に対しては死力をつくして説きつづけた。
とくに後藤が相手として選んだのは永井尚志(玄蕃頭)であった。
途中省略
竜馬がかつて永井尚志に、
「されば伺いますが、今後薩長が連合して幕府と戦った場合、幕府は勝てますか」
ときいたとき、永井はうなだれ、
「勝てぬ」
と答えた。なにぶん秀才で剛直さがないため、目に映る材料はことごとく悲観的にみえるらしい。
しかも永井は、将軍慶喜の謀臣であった原市之進が暗殺されて以来、若年寄というよりもほとんど秘書官的な存在になっている。慶喜を動かそうとすれば永井尚志を動かすのが、策というものであろう。
このため竜馬はこの春、後藤を永井に紹介し、そのあと、
「城の石垣は、一見不動のようにみえるが、一カ所の石を抜けば全体が崩れるという場所があるものだ。徳川慶喜のばあいは永井尚志がその石である」
といった。徳川幕府という壮大な石組の力学的構成の致命点が、永井尚志という繊弱な知識人にかかっているというのは、ひとつの宿命であったろう。なぜならば慶喜自身が教養人であるため、自然武骨な信念家よりも慶喜の話し相手にふさわしい知識人を好んだからである。
後藤は、この永井を懸命に説いた。後藤の策士である点は、尊王論をもって説かず、尊幕論をもって説いたことである。
「幕府を容堂は尊び、自分も尊んでいる。この時勢にわが土佐の主従ほどの尊幕派はないであろう。幕府がたとえ瓦解しても徳川家は残さねばならぬ。徳川家をして次代に生かしめる道は、大政奉還あるのみである」
論点を、その一点にしぼった。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
後藤奔走ス 2019/04/21
白仙人と大風呂敷。
尊幕論も、その様でもあるし煙に巻かれている様でもあり、それもこれも立案者が竜馬だったから変幻自在に姿を変えられたのか。仮に、立案者が中岡慎太郎だったらこうはならなかった様に思える。
大政奉還建白書を披露する時の後藤も、さぞかし良い気分だったんだろうな。西郷の気は引けなかったけど、残念。
☆信念型の近藤勇も 2018/11/24
(近藤の顔をみて、後藤はどうするか)
ということに好奇心があった。後藤の人物を量るという点でも興味があるし、さらに後藤の雄弁が、自分(永井)とはまったく別の型の、いわば頑迷といっていいほどの信念型に属する近藤勇に果して効果があるかどうかを試したかった。
途中省略
(みごとな度胸だ)
と、上座の永井尚志が後藤の態度に舌を巻いた。その鷹揚さ、余裕のある微笑、それに人をそらさぬ機智という点では、後藤ほどの男は洛中に居ないであろう。それに後藤の資格は土佐藩重役であり、かつ天下の賢候として知られた容堂の名代でもあって、背景のぶあつさがいよいよこの男の重量をおもくしている。
その後藤の男ぶりをみて、近藤も、
(類がない)
と見たらしい。
その証拠に、めったに笑わぬ近藤が声をあげて笑い、腰から脇差をぬきとってはるかなうしろへ押しやった。
(この馬鹿めが)
と、後藤は肚のなかでこの新選組局長をそうみている。
途中省略
後藤にすれば暗殺者などは瘋癲白痴としか思えないのである。近藤勇といえども後藤からみれば瘋癲白痴の親玉のようなものであった。
途中省略
この席に来るまでの近藤は、どちらかといえば、
(大政奉還工作などをするけしからぬ男)
としか、後藤を見ていなかったのだが、後藤のこの風姿に接して、
(これだけの男の言うことなら、検討するにあたいする)
と思いはじめた。
近藤の用件の一つは、後藤がもっている大政奉還に関する建白書の写しを借りることであった。
途中省略
「貴殿の高名はかねて聞き、国士無双ともいうべき人物であると見ていた。日本国の永世なる繁栄を思うとき、貴殿とともどもにこの案を推進してゆきたい」
というのが、後藤の説き方であった。近藤を国士として、かつ当代重要の政治家として遇している点が、近藤の誇りを満足させた。
近藤は、しょせんは一個の武弁であったろう。後藤のこの巧みな人蕩しに乗せられ、ついには、
「いや、みごとな御趣旨でござる」
と、感嘆の音をあげた。
かたわらで近藤のこの様子をみていた永井尚志は、内心吻とした。
実のところ永井は大政奉還こそ徳川家を政権の桎梏から解放する天来の妙案と思いはじめているのだが、ただ幕府内部を説得することに自信がない。ところが幕府内部でももっとも強硬派であろうこの新選組局長がほぼ了承しはじめている様子をみて、
(この案件が、或いは物になるかも知れない)
という自信と安堵を得たのである。この点永井にとっては近藤は化学試験紙のようなものであったろう。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
信念型の近藤勇も 2019/04/22
人蕩し、というと秀吉が真っ先に思い浮かんで人懐っこい姿を想像してしまうけれど、趣きが全然違うんですな。近藤を蕩してこそ後藤の面目躍如ナリ。少々物語的ではあるが。
パークスといい近藤といい、後藤に惚れる人物には共通点でもあるのか、これは考えすぎかな。
☆名を捨てて実を取る 2018/11/26
「西郷はどうだった」
竜馬がきくと、後藤はひどくあせっている、と答え、対幕・対薩交渉の経過と見通しをこまごまと伝えた。その後藤の話でも、西郷・大久保がよほどじれていることがわかる。
「西郷は、そうだろう」
竜馬は杯を置いた。竜馬のみるところ西郷ほど魅力に富んだ人格はないと思われるが、ただ癖として戦いを好むきらいがあるようにおもわれる。それに西郷には藩内に心酔者が多く、それがいずれも血気の士で、ときに師の西郷でさえおさえのきかぬことがある。いまの中村半次郎などはその好例であろう。
「なるほど」
後藤も、そういわれてみればわかるような気がする。
「そのせいか、先刻の会談の座では西郷はほとんど意見らしい意見をのべなかった。察するところ西郷は藩内同志をおさえきれぬところまできているらしい」
「一弾発すればもう事はぶちこわしだ。幕府をして早急に決意させねばならぬ」
「早急というが」
後藤は、さすがに疲れきっている。
「むずかしい。いますこし時日があれば何とか出来るのだが」
「どうしても幕府が呑まぬのなら」
と、竜馬はいった。
「すこし服みやすくすればよい。たとえば幕府は将軍の称号をうしなうことにこだわるだろう。そのときは称号ぐらい残してもかまわない」
「竜馬」
後藤はおどろいた。
「そいつは暴論だぜ。将軍の称号を捨てさせることが眼目ではないか」
「なあに称号などは名目だ。政権を京都に返させて栄誉だけを残す。もっとも、その称号を残すということで、こっちからも引き替えの条件を出す」
「どういう?」
後藤は、膝を乗り出した。
「いや、なんでもない。将軍の称号は残すかわり、即刻、江戸の金座、銀座を京都に移転せよということだ」
金座、銀座は、幕府の貨幣鋳造所である。それが京都に移転すれば幕府直営の金山、銀山も京都に移る。幕府はこのため金銀がなくなり、外国から物が買えなくなる。買えなくなれば一挙に衰亡せざるをえない。
(考えも及ばぬことを言やがる)
後藤は、首をふった。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
名を捨てて実を取る 2019/04/23
名を捨てて恥を取る。
いきなりですが、世界中の殆どの人は名を捨てることによって生きて(実を取って)いる、のがその実態でしょう。
先人の智恵を有り難く頂いて生活している訳であるし、後世に名を遺す人物ともなればほんの一握りであって、しかもその名が讃えられるのは、まずその死後だから。
過分の実を取っただけで満足しているならば、然程の問題も起きないのだが、そこはそれ、何時の時代でも繰り返す人間の愚かさを止める手立ては無いんでしょうな。
多少なりの功遂げ財を成すと、自ら捨てた筈の名が未練たらたら名残惜しい。当然のことながら、面子やら体面やらとの区別など付く知恵もなし。
自分一人でじたばたして自己満足しているだけならまだしも、面子、体面は他者からの評価が必要であり、そのために他人をも巻き込んでドタバタ劇を演ずる。無智な愚かさの最たるものだ。
過ぎ去りし思い出は美しく(甘酸っぱくもあり)、栄光は眩いばかりに輝きを放つ。ならばこそ、多少美化する程度なら致し方ないとしても、神格化などをしてしまうと後に道を過てり残ったのは恥だけ、となってしまうのかもしれない。これも、名を捨てて恥を取るのと同じ事と思える。
☆境地 2018/12/03
「新官制を作らねばならぬ」
竜馬はいった。
その主眼は、議会制度と富国強兵にあり、思想としては人民平等というところにあるが、かといってそれがただちに新政体として実現できるものではない。その理想的政体へ到達するための暫定的な政体をまずつくる必要があった。
なぜならば、現段階では三百諸侯はそのままであり、かれらの土地・人民の支配体制をいますぐ廃止するわけにはいかない。
途中省略
これから薩摩屋敷に西郷と大久保をたずね、さらに洛北岩倉村へゆき、岩倉具視をたずねようとするのである。それが竜馬の作戦であった。
竜馬にすれば、事がここまでくれば倒幕急先鋒の三人の大謀略家をひきこみ、あとはむしろかれらを新政府樹立の中心的存在にしてゆこうとしていた。でなければ、革命の流れが、坂本・後藤閥と、岩倉・西郷・大久保閥のふたつにわかれてしまうであろう。
「おれは、これでひっこむ」
と、竜馬はいうのである。昨夜、この竜馬の態度をきいて陸奥はおどろき、
「冗談ではない」
と大声でいってしまった。
陸奥のいうのも、当然ではあった。竜馬は薩長連合を遂げ、大政奉還を演じ、いま新官制案をつくった。当然、革命政府の主流の座にすわるべき存在である。
であるのに竜馬はこれをかぎりに身をひく、という。すべてを岩倉・西郷・大久保の流れに譲りつくしてしまうというのである。
「すべてを」
「ああ、それが物事を成就させる道だ。この新官制案も岩倉卿に渡し、岩倉卿の手もとで検討してもらう。西郷と大久保がよいようにするだろう」
竜馬のいうところは、でなければ岩倉・西郷・大久保という討幕コース派は新政府のなかで別派の閥をつくり、大政奉還コースの派と対立する勢力をつくりあげてゆくだろう。
(きっとそうなる)
かれらは、竜馬と後藤に維新政府樹立という最終点で功をうばわれた。西郷の場合は功を奪われても感情の変化をおこすような男ではゆめゆめあるまいが、その周囲やその幕下の者がどう動き、どのように西郷をかつぎあげてどのように暴走するかわからない。
「すべて西郷らにゆずってしまう」
と竜馬がいったのはこの機微を洞察したからであった。いま竜馬が革命政府の主流としてのしあるけば、政権は誕生早々から二派にわかれて相剋し、ついには瓦解してしまうかもしれない。
竜馬はこの間の自分の心境を、
「おれは日本を生まれかわらせたかっただけで、生まれかわった日本で栄達するつもりはない」
といった。さらに、
「こういう心境でなければ大事業というものはできない。おれが平素そういう心境でいたからこそ、一介の処士にすぎぬおれの意見を世の人々も傾聴してきてくれた。大事をなしとげえたのも、そのおかげである」
またさらに、
「仕事というものは、全部をやってはいけない。八分まででいい。八分までが困難の道である。あとの二分はたれでも出来る。その二分は人にやらせて完成の功を譲ってしまう。それでなければ大事業というものはできない」
ともいった。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
境地 2019/05/14
まるで、天上天下唯我独損の様で瞼が熱くなってくる。ついつい貧乏くじを引いてしまうんだろうな。
封建社会の秩序をひっくり返した竜馬であっても、日本社会そのものの秩序は乱したくない、その想いは十分に伝わってくる。
他の革命家達に、この事を考え抜いていた人物がどれ程居たのか(勿論竜馬だけだとも思わないが)。運良く維新の元勲となった後に、お殿様よりも豪奢な暮らしをした蛮士共にそこまでの知恵があったとは思えず、またそんな蛮士を崇め奉った者達も同類と思わざるを得ない。
革命というのは支配者がとって替わるものだから、豪奢な暮らしを夢見たのも人の性として目を瞑るが、社会そのものの秩序を乱していいものでもない。幕末の平和革命はそれこそ著者の言う通り、万に一つの僥倖だった、と肝に銘じておくべきであり、決して蛮士共の功とは思えない。
現代であっても、反体制を叫ぶのはそれは良いとしても、それによってどんな事態が引き起こされるのか、先の現実まで考えている人物はいるのか。ただ単に己の理想に囚われているだけなら、やはりただの蛮士と呼ばれても仕方あるまい。
この境地にまで至れば、もはや禅譲でさえもない。悟りを開く、というのともまた違った、権威という虚像にひれ伏していない心の自由さが、竜馬が大事をなしとげえたまた一つの理由なのではないかと思える。
☆世界の海援隊 2018/12/08
竜馬は藩邸の一室を借り、この原案の諸官制に参加すべき人員の名を書き入れる作業にかかった。竜馬が書き入れるこの構成員こそ、維新政府の元勲になるであろう。
途中省略
西郷は一覧し、それを小松、大久保にまわし、ぜんぶが一読したあと、ふたたびそれを手にとり、熟視した。
(竜馬の名がない)
西郷は、不審におもった。薩長連合から大政奉還にいたるまでの大仕事をやりとげた竜馬の名は、当然この「参議」のなかでの筆頭に位置すべきであろう。たとえ筆頭でなくても土佐藩から選出さるべき名であった。
途中省略
この座に、陸奥がいる。
陸奥陽之助は竜馬の秘書としてしきいのそばにすわっていた。
単に竜馬の腰巾着というだけでなく、するどすぎるほどの批判眼をもった男だから、この一座のうごきを油断なく見まもっていた。
(西郷なにするものぞ)
という肚が、もともと陸奥にはある。
途中省略
(西郷は雄藩の重役であるが、竜馬は天下独行の士にすぎない。それほど立脚点に差があるにもかかわらず、竜馬はついに西郷をしのぎ、時勢を収拾したではないか)
ということであった。
そんな目で西郷を見ている男だから、内心の批評がついしんらつであった。
(西郷は、不審がっている)
それが、陸奥には小気味いい。西郷の不審そうな表情の裏が、陸奥には手にとるようにわかるのである。
途中省略
「この表を拝見すると、当然土州から出る尊兄の名が見あたらんが、どぎゃンしもしたかの」
「わしの名が?」
竜馬はいった。陸奥が竜馬の顔を観察すると、近視の目をひどくほそめている。意外なことをきくといった表情である。
「わしァ、出ませんぜ」
と、いきなりいった。
途中省略
竜馬はやおら身を起こした。このさきが、陸奥が終生わすれえぬせりふになった。
「世界の海援隊でもやりましょうかな」
陸奥がのちのちまで人に語ったところによると、このときの竜馬こそ、西郷より二枚も三枚も大人物のように思われた。という。
さすがの西郷も、これには二の句もなかった。横の小松帯刀は、竜馬の顔を食い入るように見つめている。
古来、革命の功労者で新国家の元勲にならなかった者はいないであろう。それが常例であるのに竜馬はみずから避けた。小松は竜馬を愛慕しつづけてきた男だけに、この一言がよほどうれしかったのであろう。
「竜馬は、もはや世界が相手なんじゃろ」
と、おだやかに微笑した。
「世界の海援隊」
という意味は、陸奥にもよくわからない。世界を相手に貿易海運業をはじめる、ということなのか、どういうことなのであろう。
途中省略
とにかく、大政奉還にともなう新政府樹立の件を、西郷はすべて諒承し、本気で身を入れる気になってくれた。
司馬 遼太郎 著「竜馬がゆく」 より
世界の海援隊 令和元年/05/23
わが思うおのれの美しさのままに。
人の行動原理というものは、とどのつまり己の美的感覚に由っているのではないだろうか。
倫理観といっても様々ですが、それが例えどんなに素晴らしく理想的だったとしても、己の美意識に反していればそれを受け入れることは難しいでしょう。後は、欲の皮の艶と張り具合にもよる、というところでしょうか。
「わしなどは不用心で、瓜田に履を入れっぱなしのような男じゃ」と、うそぶく竜馬。武家社会はもとより、現代社会であっても奇異な目で見られてしまいそうだが、かと思えば、「男は、わが思うおのれの美しさを守るために死をも厭わぬものぞ。坂本竜馬は白昼堂々の男であるとわが身をそう思っている」と、明言する。
個人の美意識と、社会人としての倫理観にこれだけの落差があるのも珍しい様な気もすれば、振り返ってみれば、多かれ少なかれ誰にでも二面性はある様な気もする。
社会の倫理観と言ってもそれが多分に作られたものであれば、拒否反応が現れたとしても、むしろ、その方が正常な反応だとも思いますけどね。
人付き合いを円滑にするための知恵。
人と人とが織りなす社会にあれば、倫理道徳などと畏まらずとも重要なのは人付き合いですよね。
他人と比べては優越感に浸ってみたり、またその逆もしかり。利害だの面子だのとに振り回されてばかりで、心休まる暇も無し。
そんな面倒な人間社会でも、なんとか円滑に暮らすために発達した知恵を、古今東西、倫理道徳と呼んでいるのではないだろうか。
村社会は一日にしてならず。狭い地域に土着して、顔もほくろの数はどうだか知りませぬが、皆が顔見知りの間柄であれば、そんなに難しい事を言わなくても、それなりの秩序が自然形成されるでしょう。
村社会も、その成立までの経緯から見れば、案外民主的なのかと思える。そんなに好きでもないが、満更捨てたものでもない。
それを、自分が生まれ育った村の形しか知らぬままに、新たなムラ社会をいきなり作り上げようとしても、世の中そう簡単には出来上がらないだろうし、その勘違いの方が問題だと思いますけどね。
民主主義も、その本家の人達にあっては長い歴史の上に形作られた、と考えるのが妥当でしょう。
自分の意見を主張するなら、相手の意見だって尊重しなければ、それはそれは圭角(かど)ばかりが立って争いごとにしかならないのは目に見えている。長い年月を経て克服し、形成されていったんでしょうね。
儒教といえば、人付き合いの知恵そのものではないかと思っているんですが、これは筆者の単なる考えです。
孔子を筆頭に理想を追求してくれたんだと思いますけど(それはありがたいことですが)、所詮は他人様の理想であって、借り物の理想などというものは、時が経てばその教えを頑なに守る事だけが目的化して行き、逆に人付き合いに軋轢でも生じてしまえば、本末転倒、ただの重荷となってしまう。そんな事もあるんではないか、と思ってしまう。
それに、「絶対」という、初めに答えありきを教養としてしまったがために、その後の学校教育に多大な影響を及ぼす原因となってしまった、と思えてならない。
そうは言っても、現在の日本社会の秩序の基礎の一部となってしまっている倫理道徳を、いきなり方向転換したり捨て去ろうと(多分できないでしょうけど)した時に、それでも秩序の維持が可能か、と考えれば賢い選択とも思えない。
あまりにも身近に過ぎて、空気の様な存在になってしまっているものは、失った時に初めて後悔するものです。
何も、儒教そのものを否定している訳ではなく、振り回されてしまったら滑稽でしかないので、節度を考えて付きあうことが重要だと思いますね。
なんちゃって民主主義。
日本の場合はまだまだ、「なんちゃって民主主義、一皮むけば封建社会」の域を出ていないというのが実態でしょう。しかも、明治維新からすれば百数十年を経てもまだこれだけ。歴史とはそんなものなんでしょう、ゆるりゆるりと進んで行くしかないんだと思います。だからこそ、決して立ち止まっていてはならないとも言える。
暫し筆者の与太話を挟みますが、会社員時代にISOの認証取得を経験したんですが(四半世紀も前に、末席で下働きをした程度ですが)、その時に衝撃を受けた事が今でも鮮明に思いだされる。
感じたことが二つあって、「この理論を覆すことはできないだろうな」と思ったのと同時に、「日本人にはこの発想は出て来ないんだろうな」と感じた。これを覆せるのは「オレ様主義」だけかもしれないな。
その当時は、漠然とそんな事を思っただけであったが、今思い返すと、ISOとは民主的なものだったんだなと思う。
これを考えた人達も、まさか「これが民主主義だ」などと思って作った訳では無いだろうけど、民主主義的な人達が「これが普通だろ」と考えて作ったらそうなっただけのものだとは思うんですが、何分、なんちゃって民主主義の真っ只中に居た筆者には衝撃的だったんだと思う。もっとも、竜馬がアメリカの大統領の話や、万国公法に仰天した程では無いと思いますが。
ISOでは自主性、主体性が問われますからね。単なる知識としての民主主義ではなく、実務としての現実の民主主義を突き付けられた様なものです。
昨今、日本を代表する様な会社にも関わらず、不適格検査などの不祥事がちらほら続いていますが、ISOの認証取得してるんでしょうかね。エビの小躍り、失礼、エビデンスもそりゃ大事ですけれど、本質はそこなんですかね?。他人様の会社の事ですから憶測でしかないですが、不祥事が起きたからには何がしかの勘違いがあったんではないか、と思われてもそりゃ仕方ないですね。
こちこちの理想主義者と桃源郷。
この世にも理想郷は存在しうる。ただし、存続はしえない。
期間限定であれば、気合と根性で惚れ惚れするやうな理想郷を出現させることも可能でしょう。がしかし、そのうちに息切れしてしまうんでは無いだろうか、と思う次第です。
理想を目指すなら追い続けねばならないし、これが理想だと安堵した途端に崩壊の道へと進んでしまう。そんな状態は、もはや苦行としか言えないでしょう。
悟りを開く事が、厳しい修行を乗り越えた先にあるのと似ているかと思いますが、理想郷が苦行というのもまた変な話ですね。
悟りを開くことは素晴らしいですが、世の人全てがそんな事ばかり考えていたら、この世は間違いなく停滞するでしょう。平和で良いかもしれませんがね。
平和な社会というものも、社会の停滞によって手に入れられるものだ、と思っておいた方が無難かと思いますけど。
この世に理想郷など存続しない、と分かっているつもりでも、敵もさるもの、甘い言葉を耳元で「これ、絶対儲かりますよ」と囁かれればつい気持ちが揺らいでしまうのと同じかもしれません。
こちこちの理想主義者は絶対論者でもあり、かつ押し付けがましい様に思うんですが、その貴方の理想を「絶対儲かりますよ式」で甘く誘うのは勘弁して欲しいものです。
しかも、「絶対儲かりますよ式」を、国家がやってしまったら、そりゃ駄目ですよね。
昔のお侍さん達はそれをやっていた様なものだと思いますが、お侍さん達って暇だったんでしょ(そんなに仕事があったとは思えない)、四書五経の輪講の座(どんなものか知りませんけど)なども、半分仕事みたいなものじゃないんですか。そんなんで鍛えた呪縛が今でも脈々と残ってますからね、それと太刀打ちするだけでも大変ですわね。
とはいえ、国家の道徳教育自体は否定しないし、むしろ、国家の役割としての道徳教育はあっても良いと思っていますよ。
仮に、それを否定してしまったら、民は由らしむべしを単に裏返した、国家は由らしむべし、になってしまいませんか。
逆に、民は由らしむべし、の意識が抜けていないから過剰に反応するのかもしれませんよ。ある意味真面目さなんだけど、実は、その真面目すぎが毒なのかもしれませんよね。
道徳ですからね、何を言われても馬耳東風で通したって問題無いじゃないですか。それを怪しからん、と言いますか?国民がちっとも聞いてくれないな、となったら、道徳の内容を多少考え直すしかないし、それが国民主権というものでしょう。
むしろ、国家と国民の倫理道徳観も、多少は違っていても良いんではないか、と思うくらいですよ。全く同じだったら、逆に不気味さを感じますけどね。多分、どちらかが合わせているだけ。違うことが健全さの証になるかもしれない。
道徳の教養を強要していたなら、それは断固拒否すればいいし、それに気付かない程おめでたくは無いですけど。それよりも一番怖いのは、「絶対儲かりますよ式」なんだけど、まぁ誰かは気づくだろうし、自分で考える一つの訓練にもなる。学校ではこう言ってたけど、と親子で話し合っても良い訳だし。
誰かに答えを出して貰わなければ何をして良いのか分からない、それこそが、民は由らしむべし、の神髄(と言っていいのか)ではないですか。
お侍さん達の教養も全否定はしないし、むしろその遺産を食い潰しながら今の秩序があるのかもしれませんが、その辺りは、筆者如きにはわかりません。完全に食い潰した時にしか分からないかもしれませんね。
筆者などは、思想でも何でも己の美意識に合うものをつまみ食いする主義で、見る人が見れば移り気で一貫性が無いのかもしれませんが、特定の思想に深入りして振り回されないための知恵じゃ、としています。そんなに意思強く無いですからね。
弁解しますが、思想の選択肢自体が少なかったであろう二千年以上前と今では違うでしょ。これも時代に適応していると言っても良いんじゃないでしょうか。
勿論、人其々ですよね。
すべては天から降って来る のか?
民は由らしむべし、そんな天をも恐れぬ妄言は袈裟斬りに斬って捨てたいところですが、ザクッ、ガチャンッ、いかん、手元が滑って隣の立木に跳ね返された。
正直に言えば、誰かが答えを出してくれてそれに従っているだけで事が足りるなら、それはそれでお気楽ですよね。
雪景色の中、丁度良い湯加減の露天風呂に肩まで浸かる至福の時を過ごしていれば、そりゃ出られなくなってしまうじゃないですか(例えを外してるかな)
日本という国土は、狭いながらも天からの恵みを享受して来たし、時に非情な災害にも襲われて来た。自然信仰と結びついても何ら不思議ではないですが、お上、という存在も庶民からすれば天と同じ様なものというか、同じ扱いとでもいうべきか。お上だって領地の安堵(秩序の維持)という恵みは与えてくれていた訳だし、人道に悖る程の苛政だったとも思えず(一部ではそういう事もあったかも知れませんけど)、窮屈なところもあるけれど仕方ないね、くらいで済まされてそれが普通の日常となっていたんではないかと思うんですが、そんなに長く生きてないから詳しいことは知りません。これは、現在のお上観でもさほど変わっていないと思いますけど。
天から降って来るものには、人間になど逆らえませんですわね。
ただし、お上も豹変する時だってある訳です。「火の中に飛び込め」、もはや、狂ったとしか言い様がない時にでも天から降って来るものと思ってしまうと、とんでもない災禍に見舞われてしまいますが、昔ならいざ知らず「火の中に飛び込め」(勿論命ずる方に非があるんですが)を、命じた側を批判するばかりで、天から降って来るものとの意識が変わらなかったら、いつの日かまた同じ事を繰り返してしまいませんかね。
万機公論に決すべし。
容堂が、後藤象二郎に大政奉還案を持たせて単身送り出した際にも、公論によっておこなわせようとしたところを見ると、封建体制とはいえ、幕末の頃(何時頃からなのかは知りませんが)には民主的な思想もあったんですね。もっとも、容堂の場合の公論は武士階級限定と思われますが。
五箇条の御誓文の第一条にもなっている通り、明治政府としてもある程度の民主的な下地が無ければいきなりは採用できなかったでしょう。神国思想から民主思想まで、その比率は現代とどれくらい差があったんでしょうね、今でも大して変わっていないのかな。
武士階級以外は無責任階級でしたからね。はい、明日から責任感を持った市民となってくださいね。と言われても、そりゃ無理な注文というもので。
雨降って地固まる、この百数十年の間には、雨も降ったり槍も降ったり、激動の時代もあれば浮かれた時代もあり、紆余曲折を経て万機公論に決することができる自立した市民へと成長できたのか、それとも、まだ地は固まってないんでしょうかね。
天才待望論。
この五月一日から、元号が「令和」になりましたが、その意味が「美しい調和」と聞いて、筆者は好感を持っています。
また、和には「和を以て貴しとなす」の意味も含まれているとの事です。考案者が、自分が考案したと白状してしまった様なものですが。
美しい調和といえば、交響曲が真っ先に思い浮かぶんですが、あれも、個別のパートを単独で聞いただけなら何の事だかよく分からないのに、全てが揃った時に初めてその姿を現す。分業制と言えばそれ迄ですが、あれ以上に調和の取れた分業もなかろうと思いますね。
欠点と言えば、天才の作となる楽曲が無いと成立しないくらいですかね。
欧米人(こんな括りも如何なものかもしれませんが)というのは、何時でも天才の登場を待ち望んでいるのではないか、と思える。
自己主張に重きを置いている人達であれば、陸奥が、「若者が物事を真剣に考え、徹底的に考えぬくときに、もはやいい加減な調和の中などで仲良く暮らしてゆけない」、と言うのと似た様なもので、人々が団結する為には、常人を超えた説得力のあるものを欲っしているんではないか、と想像しています。
天才による人々を納得させられるものが権威となり、その元に集まった時に団結できる。特に米国人の場合は、そこに、ドリーム、ファンタジーの要素がプラスされると無類の強さを発揮する。
ただし、時に、それは理屈遊びではないのか、と疑わしきものにでも熱狂してしまう事もあったんでは無いかとも思えますが。
近年、欧米諸国から分断の声が聞こえてきていますが、この情勢を収める天才は現れるんでしょうかね。
日本の場合は、権威として既に成立したものを輸入してきたことが多かった為に、それを忠実に再現できる秀才が求められて来た。結果として、天才の役割を海外に依存した形になってしまった。
ある意味賢い選択といえば言えなくもないが、産みの苦しみを経験していない分、臨機応変な対応力に欠ける嫌いがありますよね。
それに、権威の成立過程を飛ばしてしまっているが為に、本来であれば、その背景にある理論に従っている筈であるのに、権威そのものが権威となってしまう事も往々にして見られる。権威が虚像と化してしまい、その軽重も曖昧なものとなってしまう。
日本は排他的だとも言われますが(村社会的な)、とはいえ、個人主義というのも、個人レベルでの排他性がある様に思うんですがね。排他性の違いが、団結の仕方にも表れているだけの様な気がする。
日本の団結も、いつのまにやら和から同(今風に言えば同調圧力)になってしまっていますが、今後、自由が尊重される流れになっていった時に、果たして団結はどの様な形になってしまうのだろうか。
筆者が一番恐れるのは、烏合の衆へと成り下がってしまう事で、これは組織として最弱であって歴史をふり返るまでも無く、残念な結果を生んでいる。
自由な社会というのは、その成熟には長い苦難の末に成立できるものであり、それは、欧米諸国であっても、まだ成熟の途上なのではないかと思う。一朝一夕に成るほど軽いものでは無いでしょう。
これからの日本が、どんな道を歩んで行くのかは分かりませんが、どんな形であれ団結力を失ってはいけないですよね。もっとも、幸か不幸か、なんとなく団結できてしまうという特技も有している訳ですが。これもいつまで続くか分かりませんがね。
ただ、これからさらに激動の時代に向かって行くであろう情勢から、やはり時代を切り拓く天才も望みたいところですが、何分、異端児は出る杭として打ってしまう風潮もあったりする訳です。
真の自由な社会とは、天才がのびのびと羽を伸ばせる事が最低条件なのではないか、などと考えています。
予め釘を刺しておきますが、お役所は不用意にしゃしゃり出ない方が良いでしょう。お役所的やっつけ仕事で口を出されると、せっかくの天才の羽が皺くちゃになりかねない。まさか悪意は無いだろうが、その無意識のうちに引っ搔き回すのが一番始末に悪い。
天才を静かに見守れる社会であれるか、そこが問われるんではないでしょうか。勿論、支援を必要としているならば、迅速に対応して差し上げることは言うまでもありません。
世界の海援隊。
海を越えてやってきたキラキラした中国の文化に、お侍さん達も目を輝かせて取り組んだことでしょう。
ところが、お侍さん達が勤勉すぎてしまった上に、格式、形式(好きそうですよね)が重なって幕末の頃ともなればガチガチの自縄自縛(亀甲ですか、お好きですね。などと縄目の美しさ自慢をしている場合ではない)になってしまって、お侍さん達も窮屈さに辟易していたんではないかと思える。
そんな時に、更にキラッキラした欧米列強の文化を目の当たりにすれば、目移りするは浮足立つは、そりゃ世も大騒ぎになりますわな。
幕府側であっても、後に廃藩置県を考えたくらいだから、窮屈な武士社会に限界を感じていた人もいたんではないか、と思うんですがね。
そうでもなければ、大政奉還も成らなかったでしょう。ただ躊躇している人達の背中を押したのは竜馬だったと思いますが。
瓜田に履を納れず。
それはごもっともなんですが、その瓜田は絶対不変のものなのか。
その瓜は、もしかするとウリ坊かも(さすがに分かるか)、見かけは立派でも中身がスカスカかもしれないし、今年のは良くできているなと思ったら実は精巧な食品サンプルかもしれない(これが一番問題)。
疑わしきはするべからず。
これは、旧来の常識を疑うこと無く受け入れる様になってしまう、という副作用も併せ持っているんではないかと思えてならない。
本来であれば、瓜の真贋を確かめる事が先であり、それが真であったならば履を納れてはいけないのは言うまでもありませんが。
もう一つ、これは、疑わしきは打擲されても仕方が無い、という意味にも取れてしまうんですが、疑わしきは罰せずの現代の法にも矛盾する。現代でも疑わしきを袋叩きにしてしまう事例が見られますが、あると思いませんか。筆者の勘違いでしょうか。
またISOの話をしますが(竜馬は面白いと思ってくれそうかな)、「誰も守らない様な規則は作る方が悪い」、と言うんですね。
規則は絶対守るんじゃ、気合と根性が足りん、と言う人もいるんでしょうね。いきおい、命に代えてでも守れ、となってしまえば怪しい世界に足を踏み入れてしまったようなものですが。
規則はあるんだけど、その実誰も守ってくれないんだよね、しょうがないね、という状態を続けていれば、その規則が形骸化してしまい、やがては、遵法精神が薄れていってしまう。だから、規則が守られていない状態を放置している事そのものが問題である。
昨今の、企業による不適格検査が何十年に渡り継続していた事例なども、まさしく、そんな規則破りをそのまま放置していた事が問題であって、ISOが問うている事そのものなんですがね。それとも、規則を守るべき気合と根性が足りていなかった、と片付けて終わりにしてしまえば、多分、また繰り返すんでしょうね。上辺だけの反省を積み上げて。
そもそも、この国は、憲法でさえ解釈でやっつけてるんですからね、海外の方からすれば、そっちの方が瓜田に履を納れず、の様に見えているんじゃ無いでしょうか。
だから、制定者が見直すべきであり、それを怠っているならば作った方が悪い、となる。筆者も、審査官とそこまで突っ込んだ話はしていないんですが、話の前後を繋ぎ合わせた上での推測です。因みに、前段階の話もあるんです。そこは省略。
規則は絶対だ。間違いでは無いんですが、そうは言っても、物理的にもほぼ不可能でしょう、という様な現実を考えていないやっつけ仕事的な規則は誰も守ら(れ)ないだろうし、規則であれ常識であれ、時代に応じて移り変わるものでもありますよね。頑なに現状の規則を絶対不変のものとしてしまったら、その歪みが後に暗い影を落とすことになるかもしれませんよね。
お上は絶対である。当時はそんな思想なんだから、それに合った思想教育(まぁ洗脳ですわね)には、儒教が丁度良かったんではないかと思うんです。だって、儒教は理想主義であり絶対論ですよね?、何も儒教を貶めようとしている訳ではなく、ただ、絶対論を助長してしまったんではないか、と思うんですね。その証拠に、今は民主主義(なんちゃってだけど)であるにもかかわらず、まるで天から降って来たかの様な絶対論は其処ここに根強く残ってるじゃ無いですか。社会の形態は変わっても思想は残る、という事ですね。
これは単なる一例だし、儒教を詳しく知らない人間(絶対論なんか大嫌いだからしょうがない)が語るのも如何なものかもしれませんが、これも筆者の推測ではあります。ただ、孔子だってそんな先のことまでは洞察できなかっただろう、とも思いますけどね。
何時でも旧来の常識を疑っていた竜馬が、常識派?から見れば、瓜田に履を入れっぱなしに見えても仕方が無いことですね。
かく言う筆者も、瓜田に履で何じゃらほい、の類でよく圭角は立ててますけど、何も好んで立ててる訳でも無く、常識はまず疑ってみるものだと思ってるだけで(このホームページも、適当に拾い読みしただけでも常識を疑う癖があるのは直ぐバレてしまいそうですが)、それどころか、法などというものも、後腐れ無く搾取する為に発達するものじゃ、ぐらいにしか思っていませんからね。瓜の真贋を見極める習慣ぐらいは必要かな、なんて思っていたりします。
そのくせ、瓜田に履を納れず。なんてたまに使うんですよね(何じゃらほいのくせに)。もっともらしく言う時には便利じゃないですか。それでも、「瓜田に履を納れず、その瓜田は移ろうものなり」のつもりではいるんですが、いちいち説明するのも面倒だし、これからは控えましょうかね。
したり顔で使っている人のことは疑う時ありますよ。この人は瓜田をどう見てるんじゃろ、ってね。
勿論、解釈は自由ですので、皆様はどうぞご自由になさってくださいませ。疑いすぎて圭角立てても大変ですからね。
ところで、日本人は遵法精神の高い国民性だと思っていますか?日頃から、しょうがないね、まぁいいや、という言葉が多いなら勘違いかもしれませんね。
こんな解釈を世に問うてみるのも一興かなと考えてみました。
そう言えば、武市半平太は学問の怖さを知っていた人物でもあるそうで、土佐藩一二を争う秀才ですからね。半平太ならどんな解釈をしたんでしょうかねぇ。
人の世は、法だけで上手く治まるものでも無いし、法以外の感情(倫理、道徳、宗教なども)によって成り立っているのが現実だと思う。かといって、感情で人を処罰して良いものでも無いし、法と感情の境界線も複雑に入り組んでいる様で一概に白黒付けることもできないのが、それも現実。
法ばかりでは世知辛いし、感情が全面に出すぎると見えない圧力が強くなって窮屈な世の中になってしまう。匙加減が難しいところですよね。これについては、今後も事あるごとに考えてはいこうと思っています。これこそが永遠の課題なのかもしれません。
平等と自由。下級武士が強烈に憧れたのは、その境遇を考えれば当然であるし、その奮闘と後の紆余曲折を経て、ありがたき事に身分上の平等と自由は手に入れる事ができた。
武士社会というものは無くなってしまっても良かったと思うが、姿かたちを変えてしぶとく残っている様であるし、武士道を代表とした個人の精神性は、残念ながら失いつつあるのかもしれません。
現代は、建前上では民主主義になっていても、その実は武士社会の匂いが残っているのなら、真の民主主義にはまだまだ道半ばであるのは当然のこと。
そろそろ、民主主義というものの意味と意義を、銘々が考え直す時期に来ているんではないか、と思う。
何時までも欧米のお手本を当てにしているばかりでは無く、それは日本型の民主主義で良いんだと思いますが、もっとも、なんちゃって民主主義が日本型だと言われてしまえばそれ迄ですが、まさかそれが多数派なんて事は無いですよね。
自主性、主体性は基本中の基本であって、その上に、日本人の気質が反映されていなければ、借り物民主主義からは卒業できないでしょう。
和を以て貴しとなす。言うは易しですが、現実はそんなに易きものでもない。
和と同の違いを、調和と同調としたとして、問題となるのは、圧力という得体のしれないものに服している場合であって、自主性、主体性があるなら和と同混在であったとしても、それが現実的な姿ではないか、とも思います。世の中、様々な人が居ても良いんですから。
美しい調和という理念も、自由とは相反する部分があるんだけれど、掲げてはいけないという理屈も無いし掲げて置いても何ら問題は無いんですが、調和と自由を両立させるには、分かっちゃいるけど、あえて白黒つけなくても何となく事が進んでしまう、言うなれば高度な曖昧さも必要なのかもしれない。
黒仙人の竜馬も、その実は灰色仙人だったと思いますけどね(黒は顔の色だから意味が違うけど)
同時代を生きた陸奥陽之助や中島作太郎などからすれば、曖昧でよく分からない部分も感じていたんではないかと思えるし、その高度な曖昧さこそが、雑多な欲を取り込めた理由なのではないかと思う。
何となく民主主義、とでもいうべきか、とりあえずそんな感じで、というかそれくらいが実は丁度良いのかもしれませんしね。
主体的にといっても、人はそんなに直ぐには変われないのも現実。
先ずは、わが思うおのれの美しさに素直になってみるのも一つの方法かもしれませんね。
今迄は、社会の常識の如く鎮座している「社会としての美学」に遠慮しがちだったと思うんですが、自分の美意識を少しずつ意思表示していれば、気付いた時には主体的に変わっているかもしれませんよね。そんな人が増えれば、やがては社会の美学も再構築されて行く事でしょう。
混迷を深めそうなこれからの世界にあっては、冷静な頭脳は勿論のこと、最後には美しい心が命運を分けるのではないかと思える。
お侍さん達の美意識に懐古趣味がある訳でも無く、かといって否定などは毛頭できるはずも無く、そもそも、どんなものかも具体的には知らない人間が言うのもおこがましい限りですが、知らず知らずのうちに身体に沁みついてると思うんですけれど。
お侍さん達が鍛え上げた精神文化には遠く及ばないとしても、せっかく遺してくれたものだから、銘々がわが思う美しさに磨きをかけ続けていれば、何時の日か、世界の海援隊ならぬ、世界の冠たる国になれる素質は十分にあるのではないか、と思っているんですがどうなんでしょうか。
それを天国から見たお侍さん達が、微笑んでくれれば良いんですけど。
ただ、くれぐれも亀甲縛りにならない様にするのと同時に、自分の美意識はあくまでも自分のものだ(他人にまで押し付けてはいけない)という事は忘れずにいたいものです。
あとがき 令和元年/07/11
この様な物語が、勝者側から描かれているのは当然としても、この物語は、敗者側である徳川幕府の体たらくぶりもふんだんに見せてくれているのが勉強になるところで、そりゃぁ倒されるでしょう、というより倒れてしまうのも不思議ではなかったことが見てとれる。
幕府が弱体化した理由が、極端な貧乏世帯に陥っていたから、というありきたりな理由であるのが何とも身につまされる話で、その貧乏になって行く過程も想像できてしまうのが、他人事と済ませられない。
幕府であれ、現代においての政府ならずとも企業であれ、その根幹が経済であるのは何ら変わらないんですな(今更だけど)
明治以前は、生産力自体が低いからあからさまな搾取になっていたが、現代は、生産力が桁違いに向上しているから、少しずつ上前をはねるだけでも十分であって、後は法(空気とやらも)を上手くゴニョゴニョすれば後腐れなく搾取できる。そんな小悪人が群れを成していれば、積もり積もってやはり庶民は貧乏になってしまう。
どちらが巨悪なのかは置いとくとしても、厄介なのは後腐れない搾取であるのは間違いなく(目立たないし数が多い)、そんな小悪行が蔓延るのは、政治に無関心な事も問題であるとは思いますが、庶民の貧乏が続けば、やがては全体が貧乏になって行き、政府でも企業でも結局は巡り巡って貧乏になって・・・、そして、歴史は繰り返すのかな。
竜馬は、西洋の法というものにいたく感心していて、それも、当時は法と呼べる様な代物ではなかったから当然だとは思います。
実際に、江戸時代にあったお裁きについて一つ(これは、いつ、どこであった事なのか記憶も定かではないので簡単に。事実か否かも曖昧です)
火事が発生した時、父親は焼死したがその子は助かった。
助かった子に対するお裁きが、死罪(忘れた)だったかなんだか(その状況も分からないんですけど)、何れにしても重罪だったと思う。
その理由が、親を助けなかったことは孝道に背く。
孝心を疑う人は居ないと思いますが、それが、公としての視点というのか親側からの視点だったりすると、その裁きが苛烈なものとなってしまう事もある。悪意がある訳でもないところが尚更怖い。
ここまでの事例は稀だったと思う、というかそうであって欲しいところですが、でも、よく考えてみると、現代でも親子間の問題を感情で論ずれば、意見が分かれていますよね。
二十一世紀の今日でも、本家の中国では「徳治」であると言ってるようでして、その真意は日本人には理解し難い歴史の重みがあるのかもしれませんが、法治と両立できるのかなと疑問に思うところです(そもそも法治ではないのか?)
「徳」、個人の思想であれば素晴らしき事この上無いですが、そこに「治」という社会の秩序維持が加わると、徳も少し様変わりしてしまうんではないか、と思うんですがね。そこに矛盾があったとしても、歴史の重さに負けて案外慣れてしまっているだけなのかもしれませんよね。もっとも、他人様のことですから四の五の言えませんが。
昔の日本人は、真面目に徳を積もうとしていたんでしょう。個人としてであれば素晴らしいことですが、徳と徳治は、出発点は同じでも別物と考えた方が良いんではないですかね。徳治は聖人の道であって、それこそ俗人は桃源郷に履を入れず(納れずでは無く)ですよ。ところが、出発点が理想的だから、「これ絶対儲かりますよ」式で道を誤ってしまうのかな。
最後に、筆者がいつも思っていて、いつも言ってるし、これからもしつこいと思われても言い続けるであろうと思いますが、人の心情に根ざすことは、個人として取り組むべきであって社会に持ち込んではならない。ただし、その境界線は複雑かつ曖昧である。
簡単に言えば、「徳治から法治へ、でも、徳も大事よね」(形式上は法治でも、まだ過去の名残りがある)
竜馬が同意してくれるかは分かりませんが、この言葉を添えて、幕末の旅(竜馬とともに)の草鞋を脱ぎたいと思います。
追記。
暫くは、筆者の文章の手直しと、引用している文章の見直し(短くできれば短く)をする予定です。この追記が消えた時に完了とします。